性の差異について:性の差異の連結とイデア界

ジェンダーとは何か:性の強度構造について

D.H.ロレンスは、性の問題を経験論的に追求して、余人を許さない性の哲学に達したと考えられる。ロレンスは、『死んだ男』で、単独的・差異的な男性個(「イエス・キリスト」)と単独的・差異的な女性個(イシスの巫女)を、登場させて、両者の性交により、前者は復活し、また後者は「オシリス」により個的実現・成就を成したのである。これを不連続的差異論から分析してみたい。 
 結局、性とは何かになるだろう。ここで、仮説を提出する。メディア界の強度構造は、極性構造である。プラス強度とマイナス強度がある。私は、以前、前者を男性強度、後者を女性強度と呼んだ。換言すると、父権強度と母権強度となるだろう。そして、仮説であるが、男性とはプラス強度が強い構造体であり、女性は反対にマイナス強度が強い構造体であるとしよう。遺伝子がそうなっているのである。
 さて、「イシスの巫女」とは(折口信夫の『死者の書』では、郎女に相当する)、マイナス強度を強くもつ差異的存在である。そして、「死んだ男」(折口では、大津皇子・滋賀津彦)である「イエス・キリスト」は、プラス強度を強くもっていた差異的存在である。「死んだ男」は、処刑の後、生き返ったのであるが(本当は、死に損なったのである)、この世・現象界において、単独者として存在し始めるのである。それは、自身の差異を肯定することである。(これは、はっきり、書かれている。)すると、ここには、本来マイナス強度的存在である「イシスの巫女」と本来プラス強度的存在であるが、マイナス強度である差異に気づいた「イエス」との連結が生起したのである。これは、どういうことかと言えば、女性は、自身のプラス強度指向の対象である「オシリス」を発見して、連結したのであり、つまり、イシスがオシリスと「結合」したということである。しかし、注意しないといけないのは、このオシリスとは、イシスの差異のマイナス強度の対極であるオシリスであり、現実の「死んだ男」ではないということである。あくまでも、「イシスの巫女」の差異のエネルゲイアを実現するプラス強度としての「オシリス」であり、つまり、「イシスの巫女」のエンテレケイアとしての「死んだ男・オシリス・イエス」に過ぎないということである。同様に、「死んだ男」にとって、「イシスの巫女」とは、自身の差異のエネルゲイアを実現するマイナス強度としての「イシスの巫女」である。両者は他者である。女性は、マイナス強度という基盤からプラス強度と連結するのであり、男性は、プラス強度という基盤からマイナス強度と連結するのである。女性の差異とはマイナス強度であり、男性の差異とはプラス強度である。そして、性の意味とは、両者におけるいわば他者である対極の強度と連結することである。女性は、女性の差異を実現するのである(女性のエンテレケイア)。そして、男性は、男性の差異を実現するのである(男性のエンテレケイア)。
 では、この実現・終局態は何を意味するのだろうか。プラス強度とマイナス強度に分離したメディア界の差異を、イデア界の差異へと回帰させることではないだろうか。しかし、これは、現象界における回帰である。現象界における差異の回帰である。ロレンスは、ここに現象界のエデンの園を見たのである。これは、自然の究極的な意味であろう。しかし、ここで、経済論的に見ると、自然である女性と貨幣である男性との究極的な調和結合を意味しているのだろう。そう、イデア界的な経済を表現しているのだ。自然と経済との理念的結合である。そして、このエンテレケイアに、差異の両強度の連結を反復して、差異的資本主義は向かうのだろう。

p.s. もう少し、性の差異を考えてみると、思うに、イデア界の差異の回転の種類の違いではないだろうか。プラス90度回転とマイナス90度回転があるのではないだろうか。プラス90度回転とは、+iであり、マイナス90度回転とは、−iである。そして、これが、メディア界において、それぞれ、+強度、 −強度となるのだろう。そして、この連結が、イデア界の差異自体への回帰ということだろう。ロレンスは全体の統一と呼んだが、それは、誤解されやすい言葉で、それは、差異共存と言うべきだろう。

p.p.s. +強度は、反作用として、−強度を「欲望」(指向・志向)としてもつだろうし、また、−強度は同様に+強度をもつだろう。この内在的「欲望」(指向・志向)が、投影された「異性」である他者を見るのだろう。すなわち、内在的「欲望」(指向・志向)が、成就されて、それぞれ、イデア界の根源の差異へ回帰するのだろう。ゼロ強度の境界をもつ差異への回帰である。共存する不連続的差異への回帰である。