二つの資本主義:連続・構造資本主義と差異・ポストモダン資本主義

差異的価値と資本主義の連結の問題であるが、近代主義は、連続化して、資本主義の差異価値/一般価値という二重構造の力学を、一般価値中心主義として、資本主義を閉鎖的にするのである。大資本中心に市場が閉ざされるのである。量的な資本主義でもある。ここでは、差異の価値が抑えられている。資本主義として停滞するのである。そう、この連続化を共同体化・社会主義化と呼んでいい。すなわち、資本制の近代主義は、資本主義が多かれ少なかれ、社会主義化するのである。これは、差異/一般価値、すなわち、差異的価値と一般的価値(形式的価値)との相補性の力学をもつ資本主義をから見ると、それを歪曲しているのである。資本主義を発展を、連続・共同体・社会主義化は阻害しているのである。これは、一般価値・交換価値の量的増大がもたらす連続化を意味する。これは、閉塞化である。反動である。資本主義を阻害する連続化を、構造主義化と呼べるだろう。すなわち、貨幣形式という超越論的形式が、資本市場を規制するからだ。(マルクスの価値形態論は、このことを述べているに過ぎないだろう。資本主義の連続化のみをマルクスは見ていたのだ。)
 ということで、資本主義は、近代主義において、構造主義化するのである。資本主義の本性の差異的ダイナミズムが阻害されるのである。そして、グローバリゼーションの時代となり、近代・構造主義的資本主義ではなくて、差異的な資本主義が復活したのである。それは、情報資本主義、新資本主義と呼ばれている。これは、構造主義化した資本主義の脱構築であり、ポスト・モダンの資本主義である。差異・不連続的差異資本主義である。差異/一般価値の相補的ダイナミズムが復活したのである。(私は、イタリア・ルネッサンス型資本主義の新生と解釈している。)
 ということで、問題点が明確になってきたと思う。近代的資本主義という混合的資本主義に替わり、差異的ダイナミズムをもった純粋資本主義の進展である。差異と差異とが連結し、新たな価値を産み、それが、一般的価値(利益)に反映するのである。現代の経済闘争は、近代・連続・構造主義資本主義とポストモダン・差異・脱構造主義資本主義との相克である。この象徴的な出来事がホリエモン事件であった。また、前者の破綻・破滅として、JR西の事件が考えられる。また、小泉内閣の政策は、この闘争の倒錯的表出である。前にも触れたが、前者の超克という目的をもちながら、前者を実際において否定して、後者を支援してしまったからだ。これは、経済的な病理である。日本経済の癌化である。そう、この問題は、マスメディアもかんでいる。マスメディアというこれまた連続体がこの経済破壊にしらんふりをしたからだ。
 最後に、資本主義の連続化についてもう少し考察しよう。これは、貨幣の量的構造主義であるが、これは、差異を認識できない知性・精神である。会社の創建者は、差異的認識をもっていたろうが、その後、連続的認識をもつものが経営者となり、差異が企業に失われるのだ。差異的認識があれば、企業の社会的倫理・責任も当然わかるのである。しかるに、社会的倫理を果たすには、企業が利益を得ないといけない。ここで、差異的生産と差異的倫理を連結させる企業が考えられるのである。ホリエモンの考えは、この胚芽のようなものがあるだろう。そして、私はこれを、イタリア・ルネッサンス型資本主義と考えているのである。差異的生産と差異的倫理の結合、ここに新資本主義、ポストモダン資本主義が存するだろう。