個の特異性を解明する:メディア界の強度構造に関して(補訂)

I:イデア界(IDEA):デュナミス:d1/d2/d3/・・・/dn
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I/M(イデア/メディア界)-----d1〜d2〜d3〜・・・〜dn-------------
↑マイナス強度 (共感性:差異の分立/並存性:倫理・責任感) 

M:メディア界(MEDIA):エネルゲイア:構造・形相・「イデア」・原型・コーラ:            ゆらぎ=差異の90度回転
       
     ↓プラス強度(反転して自我となる:反動)
M/D(メディア/現象界)-----d1・d2・d3・・・・・dn--------------
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P:現象界(PHENOMENA):エンテレケイア:d1ーd2−d3−・・・ーdn               連続的同一性=自我・言語の世界

注:dとは差異differenceのことである。また、たとえば、d1/d2の/は境界を示し、d1〜d2の〜は、イデア界の差異を、なんらかの意識で知覚している、あるいは直感している事態を示し、d1・d2とは、差異が連結されていることを表し、またd1ーd2は、差異が完全に連続化したことを示す。 
 I/M(イデア/メディア界)は、これまで、イデア極ないしイデア面と、M/P(メディア/現象界)は、現象極ないし現象面と呼んできたものであwる。
 
 連続的同一性である自我から差異へと向かうと、イデア界とメディア界の境界であるI/Mの境界に接するのだろう。I/Mの領域は、差異の多元的生成を意味するだろう。そして、差異は当然、特異性である。個の特異性とは、マイナス強度をもち、上図のI/Mの領域の意識ではないだろうか。ここは、イデア界とメディア界の境界であり、差異の共感性・分立/並存性・倫理/責任性が生じるだろう。とまれ、個の特異性とは、個において、個の身心ないし身体において、イデア界ないしI/Mにおける多元的な差異=特異性を意識ないし直感していることだと考えられる。このように考えれば、イデア界の差異=特異性と現象界の個=特異性とが通じていると説明できる。これで、所期の問題が解決されたと言える。それにより、イデア界/メディア界/現象界を圧縮して、差異平面ないし差異空間(あるいは差異位相空間)として考えることが、これで、明確に根拠づけられる。 
 ここで、ついでに言うと、自我(父権的自我)とは、メディア界における差異が反転・反動化して、差異を排出・隠蔽することで成立するだろう。これは、何度も言及したが、反動暴力性をもっているのである。とりわけ、一神教の場合は、自我による二項対立・善悪二元論性が極端になり、反動暴力性が強化されると言える。西欧「文明」とは、キリスト教によって根拠づけられて、資本主義を発展させて、地球世界に多大な支配・破壊・暴力をもたらしたと言えるし、今ももたらしている。しかし、ポスト・キリスト教=ポスト近代主義という動きであるが、それは差異への回帰、積極的回帰であり、差異の平和共存を指向(志向)していると言える。宗教的観点から言えば、新しい多神教自然宗教であるが、以前の共同体的な多神教自然宗教ではなくて、個・差異・特異性に基づくそれである。D.H.ロレンス折口信夫の探求した「宗教」が先駆的であると言える。ついでに、ロレンスのコスモスについて言うと、それは、やはり、イデア界/メディア界の差異多元的生成の領域を指していると考えられる。コスモスと一体であるというロレンスの言葉は、その領域と連結していると見るべきであり、統一性よりは、差異的共存性を見るべきである。

p.s. ポスト・モダン(脱構造主義:私の造語)における個とは、連続的同一性である自我を脱構築して、メディア界に回帰して、差異・特異性を帯びるものである。だから、プラス強度の反動性を解消して、マイナス強度の差異をもたらすのであるが、マイナス強度の差異の肯定性をもって、プラス強度を能動化させる(スピノザの能動的観念)と言えるだろう。つまり、差異をもった能動的自己・個・身心である。連続的同一性を自我とするならば、これは、自己ないし個である。差異共感性・差異倫理性をもった自己・個・主体である。