「構造改革」・「民営化」と不連続的差異論

構造改革や民営化路線は、論理的に考えると(実際ではなくて)、連続的同一性という国民国家主義的構造を解体して、差異である市民衆中心の経済・社会を創るという革命・革新的なものである。つまり、これは、民主主義的経済・社会革命である。しかし、実際は、アメリカ主導の大資本中心主義である。つまり、民主主義という名目と実際の大資本主義の二重構造である。この欺瞞を解体する現実的思考や実践が必要である。私は差異資本主義を大ざっぱに唱えているが、これは、構造改革と民営化が真に意味するものである。問題は、政府の実際行うことが、国家・大資本的構造主義であり、差異的脱構造主義ではないことだ。不良債権処理の事実がこれを示している。国民や中小企業を搾取し、犠牲にして、大銀行を救済したのだ。問題は、アメリカ主導の「構造改革」・「民営化」路線である。これを首相は盲信したのだ。つまり、アメリカ信仰である。正にイデオロギーである。国民はこれにまんまとひっかかってしまったのである(もっとも、マスコミによる内閣の支持のアンケートの数字は信用できないと思っている。胡散臭い。ジョージ・オーウェルの『1984年』の情報操作を想起する。)。問題は、首相の精神の構造主義性である。構造改革・民営化は、本来、その構造主義性を脱構築して、差異である市民衆のための革命的改革である。つまり、首相はまったくわかっていないのである。古い頭で、新しい事を為そうとしたのである。イエスは、新しい酒には新しい皮袋を、また、死者をして死者を葬らせよと言った。そう、現内閣の政策は、まったく理論と現実が乖離しているのである。構造主義と差異的資本主義・市民衆的資本主義とのまったき乖離である。分裂症である。国家・大資本中心の構造を、市民衆的資本の差異の「構造」に改革するのが主旨であるのに、逆になってしまったからだ。結局、これはアメリカ自身の問題でもある。民主主義と大資本主義の齟齬・乖離・分裂である。
 では、どうしたら、いいのか。それは、近代的構造主義を、脱近代的差異主義に変換することを徹底することである。マスから差異への転換期・転形期である。いま、たいへんな綱引きの時代である。市民衆の連である差異資本主義へと決然と突破するときである。