役人・官僚的形式主義について:その3

ニーチェ/ロレンスは、人間の種類を二分化している。高貴/卑賎、強者/弱者である。しかし、この用語は誤解されやすい。とまれ、この路線で、本件の検討を続けたい。
 先に、形式主義的な人間は、「感じやすい」のではないかと述べたが、少しあいまいな言い方なので、明快にしよう。すなわち、心が弱いということである。他者の存在に直面すると、自己の心が弱く、いじけてしまう(p.s. とういうよりは、ねじけてしまうのだろう)である。あるいは、誰かに依存しやすい心をもっているのである。つまり、幼児である。幼児タイプである。これが、おそらく、役人・官僚的形式主義の心理学ではないだろうか。この心の弱さを、連続的同一性である言語的形式主義で隠蔽するのである。そして、当然、劣等感に対する優越感をもつのである。ここでは、劣等感と優越感は一如である。心の弱者であるから、強者ぶるのである。この虚栄心、傲り、尊大さが、言語的形式主義についているのである。
 そして、真の心の強者に対しては、劣等感をもつので、反感・憎悪・嫌悪・怨恨をもつのである。また、心の弱者である者は、当然、共感性、倫理、責任感をもたない。なぜなら、他者を容れる度量がないからである。他者を肯定する強度がないのである。
 では、この他者を肯定する強度とは何か。それは、不連続的差異論から見ると、差異を肯定するマイナス強度である。差異の連結を保持するマイナス強度である。このいわば女性的強度が、他者を肯定するのである。それに対して、心の弱者は、このマイナス強度が足りないのであり、連続的同一性へ向かうプラス強度で自我権力化するのである。つまり、人間として、他者を肯定する社会能力が欠落しているのである。そのような不適格者が、役人・官僚等の指導層に就くのである。これでは、社会や国が狂い、破滅するのは当然である。現代日本がこのようになってしまった。指導者として不適格者が、上層部にいるのである。簡単に言えば、劣悪な者が指導者となっているのである。

p.s. 心の弱者とは、結局、反動的な精神の持ち主である。つまり、感覚対象を否定的に取り、自己肯定するのである。ロレンスは自己栄光化と言っていた。要するに、自己尊大化である。とまれ、心の弱者とは、反感的である。スピノザの『エチカ』の考えで言えば、歓喜を知らない精神である。つねに、不満、反感、欲求不満ともっている精神である。内在的な歓びをもたない精神である。不連続的差異論からこの精神の貧困・貧弱さを洞察するならば、イデア界的経験が欠落しているのである。イデア界は善であり、美であり、歓びの根源界である。そう、真理の世界でもある。その一かけらの経験がないのだ。だから、憎しみ、ルサンチマンの精神をもつのである。
 では、イデア界の経験とはどこにあるのだろうか。それは、なんらかの至福的な感動によるのではないだろうか。きっかけはなんでもいいだろう。なんらかの深い歓びの感動が、イデア界の経験だろう。深い、純粋な歓喜の感動である。これを経験していない人間が、劣悪、卑劣、冷酷、邪悪な人間となるのだろう。敷延すれば、社会に暴力が増えるのもこれと関係する。もっとも、経済状態も当然関係している。精神/経済的社会学である。
 もっと具体的に言ってみよう。現在のような暗い時代で、歓びをもつのは難しいことであるが、しかし、見つけられるだろう。すなわち、単独となって、内省するのだ。そうして、自己と向き合って、自分の心身に、何が歓びか問えばいいのだろう。何もないこともあるかもしれない。しかし、子供の時の記憶とか何かにあるはずである。あるいは、旅行、読書、恋愛等にあるだろう。では、歓びや感動を不連続的差異論から見るとどうなるだろうか。イデア界がメディア界として経験されるということだろう。それは、他者の共立であり、平和であり、真理であり、美であり、歓びであり、調和均衡である根源的秩序(コスモス)である。一種啓示・神秘的経験だろう。そして、この感動の心身性に、忠実であれば、その人は、優れた精神をもって自分の仕事をなすだろう。この内在的歓喜の精神が、よいものを生み出すのである。そして、このような人を指導層に迎えないといけない。差異の共立という秩序精神をもっている人こそ、指導者にふさわしいのである。今はまったく正反対の邪悪な精神の持ち主が、指導者となっているのである。