一神教と多神教とは何か:不連続的差異論の視点から

不連続的差異論から、多神教一神教の問題を見てみたい。すでに、何度も言及したが、いちおう確認の意味である。生と死、再生・復活のテーマを中心としたい。
 多神教とは、メディア界の差異を多神にしているのだろう。それは、一神教への指向をもつ。というか、中心となる神への指向をもつ。それに対して、一神教は、超越神である父を唯一神とした宗教である。これを不連続的差異論から見ると、父とは、統一的構造であると考えられる。メディア界の構造と見ていいだろう。カントで言えば、超越論的形式としての神である。問題は、神の超越性である。多神教ならば、内在的になる。神の超越性は、イデア界(換言すれば、超越界あるいは超越的根源界と呼んでもいいだろう。)から発しているだろう。しかし、単にそうではなくて、ここには、反転があるだろう。差異性を排出隠蔽するよういにして、連続的同一化するのであるが、この同一性が内在性を否定した超越性をもつのである。すなわち、メディア界の差異性を排出隠蔽した超越性である。つまり、「切断」を入れた超越性である。メディア界の相補性を断ち切る超越性である。すなわち、分離二元論、二項対立の超越性である。この切断が一神教の超越性を形成しているのである。そして、この切断が、暴力である(父権的暴力)。すなわち、差異連結の強度、マイナス強度を排除したプラス強度の超越性であり、自我中心主義であり、差異が排出されているため、他者も輩出されている。絶対主義、専制、独裁、暴君的な「自我」をもつ超越性である。これが、西洋的父権的自我である。キリスト教はこれを引き継いでいる(ブッシュ)。そう、カントの超越論的形式とは、これを感覚形式で限定したものに過ぎないだろう。
 では、ここで、20世紀になって問題になった女神の神話や文化であるが、それは、一神教で排出されたメディア界の回復を指向しているだろう。単純に見ると反動である。しかしながら、元々の父権的反動性を能動化するという意味ならば、反動ではなく、積極的で有意義・創造的である。すると、ポスト一神教・父権主義として、メディア界の新生がある。これは、すぐれた芸術家、思想家等が取り組んだものである。そして、哲学としては、ニーチェ現象学を継いだポスト・モダンないしポスト構造主義レヴィナスは知らないが、思うに、大枠としては、この系譜に入れていいのではないだろうか)である。つまり、こういうことだろう。一神教的西洋「文明」により、心身の二項対立が生じた。デカルトに見られるように、身体と精神との分離である。しかし、この分離は、知の独立を生んだ。近代科学の誕生と言ってもいい。感情を抑制して、客観的知性の独立を勝ち取ったのである。これが、一神教の意義の一つであろう。しかし、これは、連続的同一性の指向であり、差異を廃棄・排出しているのである。当然、差異の「反動」が起こる。それが、20世紀の文化・思想に起きたことである。ニーチェが先駆であった。これは、不連続的差異論の見地から言うと、イデア界の出現である。しかし、それは極限的であるが、だいたいは、メディア界の回復と言えるだろう。二項対立から相補性への転換である。相対主義である。しかし、私見では、ポストモダンは、相対主義に留まってしまった。問題は、差異の意味、把捉である。差異をメディア界において考えると、それは、連続的差異になり、ドゥルーズにあるような差異=微分になってしまうのである。問題は、連続か不連続かである。メディア界では、両義的であり、連続性を切り離せないでいる。問題点は特異性ないし特異点にあったのである。これを肯定すると、不連続性が出てくるのである。ニーチェ哲学である。個のもつ特異性が、連続性を切断するのである。ここで、不連続的差異の存するイデア界が構想されて、不連続的差異論が創造されたのである。今考えると、差異は、特異性としては、分立性(垂直性)と並存性(水平性)をもつと言えるだろう。とりわけ、並存性が、メディア界においては、連続性へと転化したと言えるように思う。しかし、本来、差異は、分立/並存性という特異性をもつものであり、それが、実は、現象界の個においても存していると言える。すなわち、コギトにおいて存する個とは、差異において思考するのであり、それは、多元的な差異である。ヒューム的な多元的差異であり、いわばアトランダムな差異である。それは、連続的同一性(アイデンティティ)に還元できないものである。一種分裂症である。すなわち、コギトの個における差異の経験・体験によって、差異の特異性が出現すると言えよう。分立/並存性という特異性がそこに出現するのである。言語的思考を通しつつも、心身において、特異性が出現するのである。ということで、差異は特異性なのである。そして、差異は不連続的なのである。この特異な差異を初めて積極的に肯定したのはニーチェであろう。(キルケゴールドストエフスキーも先駆者であろう。唯名論と異なるのは、ここには、発生・生成・生産・創造性があることだろう。)
 だから、整理すると、20世紀において、連続的同一性への反動があり、そこからメディア界が復権した。しかし、それは連続/不連続性の両義性をもっている。しかし、ニーチェ哲学にあるように、特異な差異が発見されたのである。それは、メディア界を超えたイデア界の経験であろう。あるいは、メディア界における差異性を識別した結果であろう。
 では、所期の一神教多神教の問題に返ると、20世紀の女神の神話・思想とは、メディア界の復権の一環ではあるが、差異の思想を見ないと、反動的になる。全体主義的になる。D.H.ロレンスは正に、この危機に陥ったのである。メディア界的反動性である。しかし、晩年、差異の思想に基づいて、すなわち、特異な差異の思想に基づいての、連結の思想に到達したのである。これは、新しいイデア界的思想、不連続的差異論的差異共立の思想に近いと見ることができるだろう。ついでに言えば、折口信夫の宗教観であるが、それは、ポスト天皇制としての神道であり、個としての自然宗教の復活であり、ほぼロレンスの思想と同様のものと考えられるのである。すなわち、女性の差異と男性の差異との共立的連結の思想である。