倫理とはどこから生まれるのか:即自かつ対自的差異保存力

連続的同一性の自我には、道徳はあっても、倫理はない。では、どこから倫理が生まれるかというと、差異がもつ他者指向によるだろう。差異は、差異保存力をもつ。この保存力は、即自的差異の保存と同時に他者(対自的差異)の保存を指向するだろう。前に、即自的差異の保存が主体だと言ったが、それは違うだろう。差異保存力とは自己保存力(コナトゥス)とは少し違うと思う。差異保存力とは、即自的保存性と対自(他者)的保存性が不可分となっているものだろう。これは切り離せないのだ。いくら、即自的保存に徹したとしても、対自(他者)的保存性は内在しているのである。結局、この差異保存力の対自・他者的保存力が倫理のことだろう。
 この場合、差異とは当然不連続的差異である。不連続的差異であるからこそ、対自・他者的保存力=倫理があるのである。連続的同一性の自我、共同体の自我には、道徳(私は、道徳を共同体の掟、つまり、権力共同体の支配抑圧的イデオロギーと考えている)はあるが、倫理はないのである。だから、日本のように共同体権力が強いところでは、道徳はあるが、倫理が欠落しているために、無責任体制が生起するのである。

p.s. ホリエモンの経営哲学とは、この差異保存力を内在させている。彼の言う「お金儲け」とは、差異的資本経済のことと言えるだろう。差異倫理が差異資本経済と直結するのだ。