政治家の精神の二重構造:装われた偽善の意識と無意識のエゴイズム

人間を観察すると、意識と無意識の二層に気付く。これは、フロイト精神分析の見方を言っているのでなくて、一般的に言っているのである。意識における意図と無意識の本心のズレがよくわかるのである。ここで、靖国参拝し、アメリカに追従する政治家の心について見てみよう。 
 先に、私は、宗教心=恐怖心と権力欲の二面を述べたが、ここで、これを使うと、意識においては、その政治家は、国家(=共同体)主義の宗教心をもつ。お国のために亡くなった人たちを祀る神社に参拝するのは義務と思う。しかし、無意識(本心)は、権力欲であり、このようにして、国民の宗教心(=恐怖心)にうったえるのである。おそらく、国民の宗教心は本物かもしれないが、政治家の宗教心は、建前である。形式である。権力欲に動かされて、靖国参拝をしているのである。宗教心=恐怖心は形式となっているのである。だから、政治家の権力欲、エゴイズム、自己保身が、靖国参拝の真意である。これは、先にも言ったが、戦没者へのたいへんな冒瀆であり、また、A級戦犯を祀っているのでアジア諸国の人たちへの、これまた、たいへんな冒瀆である。つまり、この政治家はたいへんな偽善欺瞞的で邪心に満ちた人物であるということになる。悪魔・悪霊と言ってもいい。悪魔・悪霊で足りないかもしれない。 
 さて、先にまた、アメリカ追従のことも同様と言った。しかし、少し違うだろう。靖国参拝は、宗教心は形式であるが、アメリカ追従は、宗教心=恐怖心が生きていると思う。恐ろしいのだと思う。だから、アメリカを奉っているのである。それは、やはり、政治家の権力欲、自己保身、エゴイズムによる。(洗脳もあるが、それは措いておく。)
 整理して言うと、政治家の心に、国家・共同体の宗教心=恐怖心はある。これは意識である。しかし、靖国参拝においては、それは、権力欲のための形式となっている。国民は利用されているのである。 
 アメリカ追従においては、それは、生きている。アメリカが恐いのである。だから、奉って、何でも言うことを聞くのである。しかし、これも、やはり、無意識の権力欲・自己保身・エゴイズムのためであり、同様に国民は利用されているのである。
 思うに、このようなタイプは、政治家だけでなく、権力欲の強い人に見られるものである。これを、不連続的差異論から分析すると、差異による身体感覚・感情の反動が権力欲となっているのである。否定的な身心である。つまり、自己の心の否定的な核心を見ないで、意識的操作(イデオロギー)で、自己形成しているのである。この心の否定的核心が反動・ルサンチマンとなり、権力衝動をもつのである。憎悪・怨恨をもっているのである。だから、このような憎しみや恨みをもった人は、当然、他者への気遣いはありえないのだから、つまり、他者を利用しようとはするだけであるから、このような人間が政治家になりたがり、またなることは、一国にとって、世界にとって不幸である。国民は少し、政治家の精神の二重構造を知る必要があるだろう。知恵を生きてる間にもたないといけない。

p.s. そう、今度の尼崎脱線事故の原因の不条理を見て、思ったのだが、経営者が、きわめて封建的であることである。封建的経営主義である。利益の量中心という面では近代的であるが。(もちろん、近代はいくつか意味がある。)信楽鉄道の事故もあったのである。思うに、主に、経営者は、個として反省していないと思う。JR西日本「共同体」として没個的に思っているだけであり、個(この場合は、自我であるが)としては、思っていない。共同体的人間として思う(反省)するだけであり、個としては、決して反省していない。つまり、表向きの顔で反省するだけで、本心は、反省していない。つまり、ここにある種の日本人の精神構造が現われているだろう。つまり、政治家と同様に二重構造である。本音は、エゴイズムであり、自己中心主義である。しかし、建前として、共同体(封建的)的に思う(思考ではない。共同体的に振る舞うのである。)。つまり、ここには、道徳はあるが、倫理はない。意識における、没個的共同体精神と無意識におけるエゴイズム、封建主義、自己中心主義の二重構造がある。これは、共同体の精神のデカダンスと言えるだろう。ここには、近代主義もない。ただ、量的利益中心の「近代」はある。つまり、ここには、近代/ポスト近代はないのである。己を反省しないエゴがあるのである。森鴎外の『阿部一族』にある封建道徳と一致するだろう。この点に関しては、別に述べよう。