ニッポン亡国宣言:共同体的人間の精神の二重構造

ある種の(多くのだと思うが)日本人の精神の二重構造について、考えたい。無意識は、エゴイズムである。意識は共同体の建前である。つまり、ある意味で人格が分裂しているのである。二重人格である。(そう、日本人は二重人格的である。)つまり、状況に応じて、使い分けているのである。個が、独立した個がないのである。(参考:漱石の「私の個人主義」:漱石は一種ニーチェ的思想をもっていたと思う。)これが、また、無責任体制を生んでいるだろう。
 とまれ、何が問題かと言うと、個において、ある種の日本人が考えていないということである。つまり、連続的に共同体的に「思う」のである。これは、コギトではない。「共同体として思う」にすぎない。すると、共同体の力学・権力に同化・同調することとなる。無批判的になる。(このような人たちが、小泉を支えているのだろう。)つまり、共同体と言っても、個々の人間の価値を意味する共同体ではなくて、権力としての共同体である。つまり、個の強度が足りない、欠落しているのである。そうすると、不連続的差異論から見ると、メディア界の強度が反動的で、積極性がないのである。個としての倫理・感情・知・批判がないのである。そう、たぶん、恐怖心があるのである。個として、考えると、共同体から浮いてしまうだろう。単独者となるだろう。しかし、個がなければ、杜撰・無責任体制のままである。小泉内閣はこの帰結である。つまり、ある種の日本人は、個として生きていないから、社会性がないのである。共同体性はある。つまり、個・差異がないから、何も感じないのである。人が事故で死のうが、関係ないのである。馬鹿の一つ覚えのように民営化を唱えればいいのである。そう、このような人物、没個的な共同体思考の人間に、何を言っても馬の耳である。すると、日本はどうなるのかである。何も感じない、共同体のエゴイストが多くにいる国というのは、明らかに、死相が現われているのである。そう、日本は滅びるだろう。