個と特異性14:メディア界の構造的多様体

メディア界において、不連続的差異は連続的に連結する。すなわち、連続的差異による多様体の基礎がここにあるのである。ベルクソン(/ハイデガー)/ドゥルーズの「差異」理論は、ここにおいて成立するのである。おそらく、プラトンのコーラもここを指しているように思える。そして、アリステレスのエネルゲイアはこれに重なる。 
 差異の連結によって、強度が生じる。つまり、連続的差異は、強度をもつのである。そして、これが、光であろう。そして、ここから、差異/強度の連続的多様体が現象化するのであるが、(連続的)差異と強度は不可分である。これが、たとえば、量子力学の粒子と波動の相補性に現れているだろう。そして、ついでに言えば、相対性理論であるが、差異と強度の不可分性とは、時空四次元体(空間:差異、時間:強度)となり、強度が一定の光速であり、差異が延長、物質となるだろう。もっとも、不可分であるが、エネルギーとは、この差異と差異との連結強度に存していると言えよう。だから、差異・強度はイデア界的には絶対値であるが、現象界においては、相対化すると言えよう(時空の相対性)。(カントの超越論的形式は、このメディア界の形式を主観形式において説いていると言えよう。)
 さて、問題にしたいのは、このメディア界の差異・強度の原型性である。差異=空間性ないし原空間性と強度=時間ないし原時間性との連続性を位相性として表現できるだろう。つまり、全現象は、この位相性の発現として考えることができるだろう。では、この位相性(連続位相性)の公式は何であるかである。差異の原空間性とは、イデア界における差異の平面性によるだろう。そして、強度の原時間性とは、イデア界における差異の境界によるだろう。だから、平面/境界のメディア界化として、平面「軸」・立体「軸」を想定できるだろう。論を簡単にするため、平面軸を水平軸、立体軸を垂直軸としよう。すると、このメディア界において、原型ないし構造として水平/垂直の直交軸があるということとなる。この水平/垂直直交軸こそ、現象界の様態・形態を発生させるものと言えよう。
 では、問題は、現象存在の多様性の説明である。ここは、連続的差異の多様体の領域である。ここで、イデア界の差異・境界のもつ絶対値を基礎とすれば、メディア界の連結差異・強度とは、多様に変化することが考えられよう。水平値・垂直値ないし水平度・垂直度が考えられて、その変数に応じて現象様態、現象多様性が生起するのではないだろうか。すなわち、メディア界の水平・垂直値(度)の変数に応じて、現象様態が投影されるのである。この投影された現象様態が現象自体である。メディア界の水平・垂直連関とは、差異・強度によるものであるが、現象投影においては、差異・強度が連結連続化しているので、時空間連続体として発現する。だから、現象界における感覚的観測知では、時空連続体を観測できるだけであり、差異・強度は観測されえないのである。物理学のエネルギーや物質とは、現象界における連続的様態に過ぎないのである。本体は、差異・強度であるが、現象界の物理学では、空間的量と時間的量の物質量しか観測できないのである。物理学のエネルギーとは、メディア界・エネルゲイアの強度ではない。
 ということで、まだ錯綜している面はあるものの、現象多様性・様態は、メディア界の差異・強度=水平・垂直性の変数的位相性によって生起すると想定した。この変数的位相性が原型であり、「イデア」であり、構造であり、形相である。このように考えることで、プラトン、アリステレス、カント、構造主義、自然科学、数学、経済学等の問題が一挙に解決されるだろう。 
 私が言う個・特異性の問題であるが、ここのメディア界の問題と関係させると、(ここでは簡単に触れるが、)現象の土台・基盤にあるメディア界的差異・強度が個・特異性の一種基礎であるが、しかし、まだ、これは、(差異的)連続体である。これは、純粋な個・特異性ではなくて、連続的全体性であり、全体主義性(「種の論理」等は、「ファシズム」の論理である)である。個・特異性とは、ニーチェのように、完全に連続体を解体したものでなくはならない。それは、不連続的差異の共立であるイデア界に存すると言える。
 ところで、論点を変えるが、メディア界の変数的位相性を述べたが、思うに、ここで、当然位相の変容があるのであるから、人間という位相とは異なる、ポストヒューマンの位相が生起してもいいはずである。天使とは言わないが、「超人」、「神人」としてのポストヒューマンの位相があるはずであり、思うに、フーコーの人間終焉論と超構造主義というべき不連続的差異論の被創造を考えると、これは現代において生起しつつあると見ることができるのではないだろうか(ガタリドゥルーズの人口に膾炙したスキゾ〈精神分裂症〉であるが、これは、不連続的差異的個・特異性の一変種と見ることができるだろうが、彼らは、不連続的差異のイデア界を、「器官なき身体」、「リゾーム」、「内在平面」、「千のプラトー」によって予感・示唆・暗示したに過ぎない。)。これは、ポスト・ヒューマン進化となると思う。国民国家主義という人間学が終焉しつつあるのだ。そして、不連続的差異的資本政治経済社会文化というポストヒューマン・ロゴス(叡智・ソフィア)が生起していると言えるだろう。人間・近代・量的資本主義からポストヒューマン・ポストモダン・差異的資本主義へと相転移しつつあると言えよう。