個と特異性12:人間や現象の一般形式、エネルゲイアとは何か:様態

antares2005-07-22

結局、人間は、イデア界全体になった。ミクロコスモス=マクロコスモス、超人・神人である。D.H.ロレンスが「われわれはコスモスと一体である」と晩年言ったが、それは、極言的に正しい。占星学や占いがそれなりに当たるのは当然である。なぜなら、宇宙と人間は一体だからである。宇宙の根源と人間の根源は同一だからである。
 それはいい。問題は、どうして、現象界の様態をとっているのか。というか、様態はどのようなシステムで形成されるのかである。直感で、振動と形態が浮かんだ。クラドニの図形である。ここで、メディア界における強度を考えよう。ここで、現象様態を形成する強度がメディア界にあるだろう。たとえば、馬を形成する強度を考えよう。それは、メディア界の多数の差異から、馬となる差異の連結性をもつと言える。ここで図化しよう。


イデア/メディア界=差異1/差異2/差異3/・・・・差異n

馬の差異の連結=馬差異1・馬差異2・馬差異3・・・・・馬差異n


ここで、馬差異とは、イデア/メディア界の差異kの部分集合である。そして、この馬の差異のメディア界の強度がある。すなわち、馬の連結差異の強度である。そして、馬の連結差異+強度で、馬という様態が形成されるのである。そして、この連結差異・強度が様態原型である。
 そして、この様態的差異連結であるが、それは、強度がもつ波動によると言えるだろう。ここで、量子論を想起すれば、いいのだ。素粒子と波動との相補性である。これを応用すれば、強度は波動となるのである。この強度的波動が馬の様態の形状を作るのである。
 では、根本の問題として、イデア界の差異の共立から馬の差異という連結が選ばれるのかということがある。それは、結局、位相性、トポロジーの問題だろう。差異に垂直/水平性を考えればいいだろう。垂直性が脚となったり、首やたてがみとなったり、水平性が胴体となったりするだろう。つまり、差異の垂直/水平性の多様な複合的な位相を考えればいいだろう。つまり、差異連結の位相性として、メディア界の差異連結・強度があるのだろう。そして、敷延すれば、この差異連結の位相性が現象界の様態を形成発生させると言えるだろう。馬も人間も似ているのだ。四肢がある。微生物も人間と同じだ。そして、無生物も人間と同じだろう。鉱物だって垂直/水平性をもっているからだ。 
 人間と他の現象存在との相違は、ただ、人間が言語や道具を用いたり、二足歩行等したりして、知恵をもったことにある。また、この知恵が結局、万物の根源を希求させたこと、つまり、内在しているイデア界の衝動によって、万有の根源を探究させたことにあるだろう(科学も哲学も経済も、知恵学である)。知恵が人間と他の現象存在を区別するのだ。だから、知恵なき子である小泉やブッシュは、人間ではないという結論になるだろう。(濃い炭や薮を支持する者も同様だ。)
 とまれ、後で、差異連結位相について詳しく考察したい。

参照:クラドニパターン(上図)
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-05/531.htm
この図を見ると、占星学の説明に使えそうだ。

クラドニについて
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%8B&hl=ja&lr=&start=10&sa=N

p.s. フーコーの「人間の死」について
http://www.fine.lett.hiroshima-u.ac.jp/ethica/1gotto.html
http://www.cna.ne.jp/~kuroneko/newpage165.html
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コメント

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■ポストヒューマンの新アイオーン

そう、不連続的差異論は、イデア界的強度とは、人間をポストヒューマンにするのである。フーコーは正しかったのである。人間の終焉である。
ソフィオロジスト (2005-04-29 20:52:59)

■自己コメント2:人間の死

人間の終焉とは、フーコーの考えによれば、近代における人間の主導性の終焉である。それは、構造主義的な世界観に拠るものである。つまり、構造が人間を規定しているのであって、人間が構造を規定しているのではない。そして、今や不連続的差異論によって、人間ではなくて、イデア界が根源であることとなったのである。人間現象が、不連続的差異として解体したのである。
ソフィオロジスト (2005-04-29 21:41:24)