個と特異性9:差異と境界の意味:連続的強度と不連続的強度

個と特異性9:差異と境界の意味

差異と境界は、不可分のものであることを確認して、検討を続けよう。(特異性の問題に執着するが、納得できる結論に達するまで反復するつもりである。)
また、直感から始めたい。我という個・特異性の感覚・意識であるが、それは、メディア界の強度に基づくだろう。その強度は、差異の連結によるのであるから、差異の連結と不可分である。つまり、差異連結・強度であり、エネルゲイアである。これが、個・特異性の感覚・意識を生むだろう。
では、このメディア界・エネルゲイア構造主義の構造)は、万人に共通のものなのだろうか。つまり、一つのものなのだろうか。イデア界は一つである。具体的に見てみよう。Kがいる。Kは、差異の連結から発生したのである。この差異の連結は、たとえば、差異1・差異2・差異3・・・差異kと表記できるだろう。しかし、差異自体は、万人共通であろう。(もっとも、ここでは性別を無視する。)そう、遺伝子である。遺伝子の型・鋳型である。すなわち、パターンとしての差異の連結があるだろう。人間の鋳型としての差異の連結。一般形態としての差異の連結。これは確かに構造である。カントで言えば、超越論的形式であり、プラトンで言えば、イデアである。しかし、これは明らかに、個・特異性ではない。ここには、個・特異性はない。ここは、ほぼ、言語や数の世界である。
メディア界は、このような一般形式自体ではない。不連続的差異の側面をもっているのである。思うに、強度も両面・両義性をもつのであり、連続的同一性の強度と不連続的差異性の強度をもつ。前者をこれまで、私は、マイナス強度、後者をプラス強度と呼んできたが、明快にするために、簡単に、連続的強度と不連続的強度と呼び、弁別しよう。ここから、鋳型、パターン、構造としての差異の連結とは、連続的強度による一般形式(超越論的形式)と言えるだろう。そして、私が言う個・特異性とは、不連続的強度によると言えるのではないだろうか。つまり、構造を解体するような「力」である。たとえば、「私の身元はこれこれである。」という個別性を解体するものである。「私の一面はそれであるが、私は多数・多元的であり、生成変化するものである。」という「力」は不連続的強度であろう。これをいちおう認めて、検討を続けよう。
個・特異性が不連続的強度によるならば、個・特異性とは、不連続的差異の共立を指しているだろう。つまり、イデア界を指しているだろう。そして、これまで、ほとんどの哲学・理論は、連続的強度に引きずられて、イデア界にあるものを一者、一、一元論にしてきたのである。(一神教も同様と言えよう。不連続的差異論は、イデア界は多数ないし無数の差異の共立から成ると明言・明確にした点で独創・創造的である。ライプニッツモナド論は、折衷的であり、単子を連続的に考えている。)個・特異性が、不連続的差異の共立、イデア界、境界に隔てられた多数・無数の差異を指しているとしよう。私は先に、これが普遍的であり、共通・一般であると述べて、アポリア(難問)に達したのである。普遍性と一般性を区別すれば、問題はないかもしれないが。
また、直感から言おう。イデア界の不連続的差異とは、各々、特異性である。そして、特異性として、絶対である。そう、普遍的絶対性である。すなわち、特異・絶対的差異である。そして、これが共立しているのである。ここで、個・特異性とは、イデア界を指向するのであるが、イデア界の特定の不連続的差異の共立、限定された共立を指向するのでなく、イデア界全体を指向すると仮定して考えたい。つまり、不連続的強度とはイデア界全体を指向しているのである。だからこそ、個・特異性は単に普遍的であるだけでなく、絶対的であると言えよう。このように考えれば、先に説いたように、差異の境界を独立させる必要はなくなる(これは、また、誤りである)。神秘主義がマクロコスモス、宗教が超越神ないし唯一神を説くのは怪しむに足りない。それらは、メディア界の強度が、連続的強度をもってイデア界を指向しているのである。つまり、同一性の強度をもって、不連続的強度に駆動されてイデア界を指向し、イデア界の表象観念しているのである。(ここで、多神教について触れると、それは、連続的強度の低いときの、不連続的強度の表象であろう。)だから、不連続的差異論から神秘主義や宗教を批判解体できるのである。すなわち、マクロコスモス、神とは、イデア界全体、多数・無数の不連続的差異の共立するイデア界全体であるということである。東方キリスト教ギリシア正教)の神人化(テオーシス)もこれで理解できる。ニーチェの超人もこれで理解できる。そして、折口信夫の神学は、ほぼイデア界を表現していると考えることができるだろう。『死者の書』の郎女(いらつめ)の幻視に現れた復活した大津皇子とは、日の御子(太陽神)であり、同時に多数の地蔵(多神)であった。また、新神道論では、一神教多神教のあいだでゆらいでいるのである。
ここで、簡単にまとめよう。個・特異性とは、メディア界の不連続的強度によるイデア界全体・総体への指向性である。そして、イデア界全体は、普遍かつ絶対的かつ無限的である。そして、これは、これまで、哲学、宗教等において、主に一元論的に表象されてきたが、それは、不正確である。なぜなら、イデア界は多数・無数の不連続的差異が境界に隔てられて共立している「世界」であり、本来的に多元(多神)的な「世界」であるからである。一元論(一神教)が生まれたのは、メディア界の強度が新たに賦活されたときであり、それは、連続的強度(同一性への強度)を強くもっていたので一元論(一神教)となったと言えるし、また、差異の境界はある意味で一元的であるので、それが強度として発出して、一元論(一神教)が生まれたと言えるだろう。では、どちらが正しいのだろうか。両方は同じ事態を指しているだろう。メディア界の強度が共通項である。メディア界は連続的強度をもつため、一元論(一神教)化する傾向をもつのである。すなわち、差異の境界→メディア界の強度→連続的強度→一元論(一神教)化である。
しかるに、この一元論(一神教)の自縛が、不連続的差異論によって、ほどけたのである。確かに、ここには新たな多元論があるが、しかし、それは、一元論を廃棄したのではない。旧い一元論を廃棄したが、個・特異性という一元性はあるのである。これがないと、無責任・没倫理の多元・相対主義となるだろう。
長くなったので、別に、不連続的差異と個的特異性についてもう少し検討したい。