個と特異性6:ソフィア・ロゴス・グノーシス界

まず、連続的同一性である自我について整理しよう。それは、メディア界的差異の連結に対して、差異を隠蔽する方向ではたらく。つまり、差異に対して反動的になるということである。つまり、否定的敵対的ということである。 
 次に、差異を肯定した個・特異性である自己はどのように、イデア界と関係するのか見てみよう。つまり、自身が連続的同一性の自我であることから脱却した存在であることを確認した個・特異性としての自己とイデア界との関係である。もっとも、ここでは、いわばスピノザ哲学化された、差異が積極・能動的に肯定されている差異の場合を考える。(むき出しの反動・否定態の差異は、危険なものである。)
 多数・多元的な差異から成り立つ個・特異性である自己がある。しかし、これまでの検討から、多数・多元的な差異とは、人間の原型の構成要素であり、万人に共通のものであった。ここでの問題は、差異と境界の問題であった。すなわち、個・特異性とは単に差異だけから成るのではなく、差異+境界から成り立つということである。簡単に、差異・境界と記述すると、差異という普遍性を認識するのは境界であると言えよう。ここで注意すると、先にも述べたが、差異即非境界である。(即非とは、即であり、同時に非であるということである。これは鈴木大拙の用語を借りている。)多数・多元的な差異を認識するのは、境界であると考えたが、先にも述べたように、境界が認識ならば、差異は存在である。(これは、ハイデガーの意味での存在に近いだろう。存在者ではない。)とまれ、この境界がメディア界においては、強度をもち、差異が不連続になったり、連続(正確には擬制・疑似連続)になったりするが、イデア界においては、境界は差異の不連続性を維持する。
 さて、そこで、個・特異性とイデア界における差異との関係であるが、差異は確かに特異点である。しかし、これは、存在的特異点であり、普遍的特異点である。ここでは、個・特異性はない。つまり、人間原型の構成要素として普遍的特異性があるのであり、個的特異性はないのである。では、個的特異性とはどこにあるのか。それは、先に述べたように、イデア界の境界に存するだろう。境界に個的特異性の「情報」があるのであり、これが、普遍的特異性、存在的特異性である多数・多元・多種的差異を結合させると考えられるのである。喩えれば、雪の結晶の芯である。一種イデアである。しかし、混同していけないのは、情報としてのイデアと差異としてのイデアである。プラトン自身、この二つのイデアを混同していたように思える。たとえば、馬のイデアであるが、これは、正しくは、境界情報のイデア(境界情報イデア)である。プラトンは、イデア界におそらく、境界情報イデアを見ていて、差異イデアを見ていなかった。だから、アリステレスの批判が起こったといえるのではないだろうか。その批判は、質料=デュナミスが根源であるという指摘である。そう、質料=デュナミスとは、今の視点から見ると、差異イデア+境界情報イデアである。
 とまれ、このように考えると、イデア界(デュナミス)とは、差異イデア/境界情報イデア界と表現できる。そして、個的特異性とは、差異イデアではなくて、境界情報イデアに存すると言えるだろう。これで、所期の問題を終えたとしよう。
 さて、さらにここで、仮想してみると、イデア界を、差異普遍界と境界情報界に分けられないかと思われるのである。プラトンイデアイデアとしての善のイデア(「太陽のイデア」)を指摘していた。そこで、イデアを差異普遍界とし、イデアイデアを境界情報界と見ることはできないかと思うのである。思えば、境界とは超光が無限速度で移動する領域である。そして、ここには、万有万物のいわば種子、ロゴスが存しているのである。いわば、ロゴス宝庫・宝蔵・貯蔵庫である(比較:仏教の阿頼耶識)。確かに、ここは、純粋な形の万有万物が存するだろう。だから、真善美の究極の世界と言ってもいいだろう。しかも、固定した世界ではなくて、情報ロゴスが永遠に生成変化する領域・原時間(原空間とは、差異の方であろう)である。そう、この境界情報宝庫をソフィア・ロゴス・グノーシス界と呼んでもいいだろう。簡単に言えば、ソフィア界、ロゴス界、グノーシス界である。ここが、「神」、「神々」の領域である。