個的保存と倫理:差異的個と共感/倫理性の相補性

個であることと共感/倫理性:あるいは、個であることと共感/倫理性とのバランスについて


共感/倫理性によって、困っている人を助けようとするとしよう。しかし、持続的に支援を行っても、その人はほとんどよくならないし、また、自分自身がその支援によって、害を受けるとしよう。つまり、自己負担が大きなものとなり、自己生存に危うくなってくるとしよう。この場合、どうしたらいいのだろうか。その困っている人を支援する人は、自分以外にいない。しかし、支援を継続すれば、自分自身が破壊されるのである。ジレンマに陥っているのである。この支援する人は、ほとんど孤立無援である。個であることと共感/倫理性との狭間で、蟻地獄のような困難に逢着しているのである。いわば、実存のアンチノミーである。ここで、自己保存性ないし差異保存性の視点から見ると、この苦境・困難にある人は、他者への共感/倫理を放棄して、自己保存をすべきである。これは利己主義、エゴイズムだろうか。そうではないだろう。先に述べたが、自己保存と他者倫理とが相補性をなしているのであり、後者が前者を侵害するならば、後者を放棄するのは正しいことである。しかし、ここで、疑問が提起されるだろう。いわゆる、自爆テロをどう見るのか。確かに、自己犠牲による、敵を破壊する行為である。しかし、自己犠牲とは何かである。この場合、自己の帰属する集合体、社会体の権利を守るための行為である。つまり、ここでは、個というよりは、一種共同体の価値観が優先していると言えよう。確かに、他者共感・倫理があるだろうが、ここには、個的価値観はない。なぜなら、個的価値観とは、自己が単独的であり、独立している、すなわち、差異、不連続的差異、特異性であるということであり、他者のために自己犠牲することは本来的なものでないからである。(もっとも、ここで、自爆テロ自体を非難しているのではない。それを引き起こすような理不尽な現実があるということが問題なのである。) 
 ということで、個的あり方、個的差異性を確認した。これは、利己主義と混同されやすいが、似て非なるものである。これは、差異的ないし不連続的差異的個主義と言えるだろう。倫理とは、差異的個に基づく相対的倫理となるだろう。いわば、倫理の相対性理論である。個々の観測点によって、倫理値が異なるのである。しかし、倫理自体は、差異的個の違いに関わらず、共通のものだろう。相対性理論で、光速の一定の原理があるように、倫理共通の原理があるのではないだろうか。ここで、付加して言えば、道徳とは、連続的同一性の共同体によるものであり、反動的であるのに対して、倫理とは、差異的個の強度に基づく、自由なものである。そして、責任感とは、当然、倫理に基づくものであり、日本の政治家や官僚や文化人の途方もない無責任さとは、彼らの、差異的個というあり方の欠落した、連続的同一性=共同体=道徳性によると言えるだろう。私が先に、この根因として、へその緒の村落共同体をあげたが、確かにそれは、否定できないだろうが、それより、江戸時代における武家的封建的共同体性の方が主体ではないかと今思っている。