折口信夫の神道宗教化論と不連続的差異論:産霊(むすび)の神と差異

折口信夫は、「大東亜戦争」における日本の敗北を神々の敗北と考えて、戦後、神道の宗教化を提唱した。神道を宗教化するということは、常識的にみると、神道は宗教なのだから、奇妙な考えと思われるだろう。しかし、折口は、日本人は神道を明確に宗教として捉えてこなかったと考えていたのである。つまり、奇蹟を信じてはいたが、宗教的情熱をもっていなかったということである。そして、戦後、天皇人間宣言があって、誤った神道から脱却できて、神道の宗教化のための好機と考えていたのである。折口は、神道の根源として高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かみむすびのかみ)を考えて、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)や天照大神を、除いたのである。そして、そこから、すなわち、産霊(むすび)の神を根源として、理論化しようと考えていたのである。それは、一神教多神教か明確にしていなかったようである。それでも、前者の方に折口は傾いていたようではある。 
 さて、ここで、不連続的差異論から、折口の神道宗教化論を考えてみたい。私見では、不連続的差異論の宗教論は、新しい多神教になる。だから、折口の考えた新しい神道とは異なるように見える。ここで、折口の『死者の書』における郎女のヴィジョン・幻視の大津皇子・滋賀津彦とは、「日の御子」すなわち太陽神の性格をもつことを考えると、折口の一神教神道は、太陽神的一神教になると言えるだろう。さて、不連続的差異論において、イデア界・デュナミス(差異的可能態)は多数の差異と境界から形成されている。そして、境界を介して、無限速度で、いわば超光が差異と差異の間を移動していると考えられる。あるいは、境界が超光と言ってもいいだろう。そして、多数ないし無数の差異を「多神」と見るならば、境界ないし超光は「太陽神」に当たると言えるだろう。つまり、不連続的差異論的宗教論ないし神学とは、多神教一神教の併存・共存・共生と言えるのである。だから、私が先に述べたこと、すなわち、不連続的差異論は新しい多神教であるというのは、不十分な、不適切な言い方であったと言えよう。確かに、新しい多神教ではあるが、新しい一神教を併存させていることを述べないと、不十分なのである。さて、この新たな視点から、折口の神道宗教化論を見ると、折口自身、多神教一神教の間で揺れ動いているのであるから、折口の提唱した神道宗教とは、実は、不連続的差異論的宗教・神学に一致するのではないか仮説することができるのである。多数の差異=多神教/境界=超光・太陽神=一神教ということである。そう、不連続的差異論は折口の神道宗教化論に解答を与えるもののように考えられるのである。もっとも、注意すべきは、これは多神教一神教ではないということである。万教帰一ではないのである。

p.s. 以上のように見ると、私がこれまで述べてきた倫理と折口神学/不連続的差異論的神学とは、一致すると言えるだろう。倫理と宗教/神学が一致するのである。これについては、後で、検討したい。

p.p.s.  ここで、スピノザの神即自然の哲学と比較すると興味深いだろう。私自身、それが、一神教的な向きをもつと思っていた。しかし、多神教一神教の併存の視点からスピノザ哲学を見るならば、それは、不連続的差異論を示唆していたと言えるだろう。つまり、心身平行論とは、身体を差異、精神を境界とするならば、不連続的差異論を指向すると考えられるのである。