2つの音:歌のない音と歌う音:知性至上主義と差異表現

最近は、久々にマーラーを聴いている。そして、はっきり気づいたのは、聴いて納得できる演奏とそうできない演奏の違いである。もちろん、過去においても、好きな演奏、嫌いな演奏はあったが、今や、はっきり演奏の質が直観できるのである。それを言おう。たとえば、マーラー交響曲第五番であるが、今度ベルリン・フィルの芸術監督に就任したラトルの演奏と最近亡くなったベルティーニの演奏を比べてみる。両方、ライブのCDである。前者は、確かに研ぎ澄まされた分析力を感じるものであり、後者、旋律を歌わせ、感情を表出している。前者は冷たい演奏であり、感興が起こらないのである。それに対して、後者は共感できる歌があるのである。しかも、後者には、分析力がないわけではなく、知的分析も十分感じるのである。この相違が決定的だと思う。二種類の音があるのである。単に知的な音と、知性と共感性のある音。これは何を意味しているのだろうか。身体/精神ないし心身性の考えると、音という対象に対して、身体は感覚受容して、それを精神に伝えて、精神は音の感情や知性を感じ取るのである。音「楽」である。感興とは、感情や知性の両面で感じるものである。歌のもつ情感の豊かさ、そして、音のもつ造形性、等々を心身は感じるだろう。そして、楽しむ、歓びを得るのである。ここから見ると、ベルティーニの演奏の方が、本道・王道である。それに対して、今や輝かしい地位についたラトルの演奏は、邪道である。単なる知的分析力の音の造形になり、歌が死んでいるのである。 
 差異という観点から見てみよう。音1、音2、音3,・・・音nという音の動きが楽譜にあるとしよう。ラトルの演奏は、音を単に知的構造と見るだけである。しかし、ベルティーニのそれは、音を知/情感の構成要素と見るのである。先に、差異とは、自己が自己以外の他者を指向するものと述べた。これによると、ラトルの演奏とは、知性が主導となっていて、音を支配しているのである。つまり、音を差異とすれば、音1が音2を指向するという差異を、ラトルは無視して、知性至上主義で、音1と音2との連結するのである。これは、差異の無視である。暴力・権力である。だから、音楽は死ぬのである。つまり、差異無き音楽をラトルは行っているのである。知性至上主義、知性権力主義であり、近代自我合理主義であり、古い演奏のスタイルと言えよう。反動的と言ってもいいだろう。(もっとも、ベルリン・フィルというクラシック音楽の権力の牙城であるから、当然なのかもしれない。いわば、クラシックのアメリカ政府だ。)とまれ、ベルティーニの演奏は、音1が音2を指向する差異を表出していると思う。つまり、他者を指向するとは、強度に関係することであり、強度とは、情感に関係することである。ドゥルーズガタリは、『哲学とは何か』で、アフェクト(affect)という語を用いている。それは、変様・情動と訳されていたと思う。つまり、それは、差異のもつ強度のことであろう。さて、この場合は、音1が音2へと指向する差異の強度において、情感/知性の表情が生じると言えよう。ここで、情感/知性を理性と言い換えて、差異の強度において、理性の表情が生まれると言えるだろう。そして、この理性の表情(表現)が、感興を生むのである。結局、今を時めくラトルの演奏は、正に反動権力的な、近代主義の演奏であり、それに比べれば地味であったベルティーニの演奏は、差異表現の演奏である。後者をポスト近代主義の演奏と言っていいのか、躊躇するが、しかしながら、少なくとも近代主義の演奏ではないことは確かである。