音楽の音の差異について:ポスト日本共同体としての『死者の書』

ベルティーニの他の演奏を聴くと、感情的連続性がある。それは、ラトルの知的分析の連続性と対照となる。ゆえに、両者、私の理想とする差異的演奏と異なる。では、私の理想とする差異的演奏とは何か。それは、音の差異性を活かすものである。差異は差異として、特異性であり、普遍的である。だから、極論すれば、特異性1ー特異性2−特異性3ー・・・特異性nという音の順列が、私の理想とする差異的演奏である。n個の普遍性から形成される。(ラトルの演奏は、知的分析という抽象性が統一支配している。つまり、知的分析性という抽象性の連続性がある。ベルティーニは、感情的連続的同一性が感じられる。理想の差異的演奏に近いものをあげるならば、古い演奏であるが、グスタフ・レオンハルトチェンバロによるバッハの『フーガの技法』の演奏である。この演奏は別格である。今は説明しないが、いちおうあげておく。)  
 では、特異性の連結とは何を意味するのか。音楽に限定しよう。

音は、身体感覚(聴覚)的精神知覚で認識される。音声言語の場合は、主に言語観念/語調、さらに文脈、表情等によって認識される。しかし、音楽の場合は、身体感覚的精神知覚(以後、略して、身心知覚とする)において、音の造形による情感/知性が主導的となる。そして、音の造形=情感/知性とは、音の差異と差異との連結が形成する。これは、差異連結による強度と言っていいだろう。すなわち、音の造形=情感/知性=差異連結強度である。私はここで、ドゥルーズガタリの離接という考えを使用するのが適切であると思う。すなわち、音差異1と音差異2の連結強度であるが、音差異1と音差異2との関係は、不連続であると同時に、なんらかの連続性をもつ。しかし、この離接の場合は、基本的には不連続的である。不連続の「連続」であるが、これは、疑似連続、擬制の連続である。確かに、音差異1は、音差異2を指向する。しかし、音差異1の指向は、音差異2と連続してはないのである。この不連続的差異の指向が音楽の強度であろう(もっとも、これは、視覚芸術や文学にもあてはまるだろう)。結局、音差異1の指向/音差異2の指向/音差異3の指向/・・・/音差異nの指向の総体が音楽である(この/は、音差異の境界である)。これは、いちおう、演奏について考えたのであるが、実は、音楽自体にもあてまるだろう。ということで、音楽とは、不連続な音差異の共立態であることが判明した。だから、私が考える理想的な差異的演奏とは、以上のような差異強度をもたなくてはならず、それは、差異でありつつ、擬制の連続性をもつものである。この差異強度は、情感/知性となって現れるのであるが、量子論に喩えれば、知性が粒子で、情感が波動であろう。そして、不連続性は知性であり、擬制連続性は情感であろう(すなわち、差異の指向が情感であり、指向する他者が差異のいわば極限値であろう。しかし、極限値はあくまでの近似値にしか過ぎない)。だから、差異的演奏とは、基本は不連続的ながらも、「憧れ」として、他者への共感性をもつのである。この共感性が差異的演奏の情感性であり、不連続的な情感あるいは共感である。
 ここで、この音差異強度の知性/情感に有り様を簡単に言えば、音造形の知性と情感・共感性とは相補性を形成しているということである。あるいは、陰陽性・対極性と言ってもいいだろう。すなわち、音造形とは、不連続的差異である音差異の共立態であり、その差異強度は、知性/情感の相補性をもつのであり、知性や情感がなんらかの連続性を形成するならば、その音楽は、その連続性に従属することになり、その独立的特異性を失うことになる。ラトルの場合、音楽が抽象的な分析的知性に従属しているのであり、ベルティーニの場合は、指揮者の情感の連続性に従属しているのである。音楽がその特異性・差異性によって独立できていないのである。これで所期の問題を終えたとしよう。
 
 以上の事は、音楽だけでなく、あらゆることに当てはまるのである。国家について考えると、日本の場合、アメリカと連続しているために、従属していて、実質的には独立国ではないのである。日本準国家・半国家である。このような連続性とは、日本のあらゆる領域にその影響が及ぶであろう。とりわけ、日本人の精神の独立性の欠落である。そう、では、この連続性の受け皿が、日本にあるはずである。それは、今簡単に言えば、村落共同体であろう。この伝統が受け皿となり、「神」であるアメリカを崇拝しているのである。つまり、村落共同体の精神が、へその緒として、日本人に残っているのである。だから、個人は、コギト性が希薄で、共同体に依存・帰属するのである(これが、フジサンケイ・グループ他の家族主義であろう)。コギトが希薄であるということは、差異・特異性が乏しいということであり、ここから、個人の自我・エゴイズムが形成されるのである。すなわち、共同体に連続的同一化した自我・エゴイズム(p.s. コギト性、個的差異性が欠落しているので、とりわけ、指導層、上層部の無責任さが生起するのである)が生じるのである。共同体の神とは、当然、共同体のエゴイズムである。宗教は共同体のエゴイズムのイデオロギーとなる。(ここで、森鴎外の『阿部一族』を想起してもいいだろう。)
 とまれ、アメリカに従属する受け皿としての村落共同体の精神を指摘した。小泉首相他は、このような精神をもつのであり、また、彼らを支持する日本人も同様である。結局、日本が独立するためには、この共同体の連続的同一性の精神を、理論かつ実践的に打破しないといけないのである。ここにおいて、差異の理論の意味がある。不連続的差異論やアポスターズ論、そして、ホリエモンの差異資本主義が今日出現したのである。また、折口信夫の日本神学に関して言えば、彼の究極的な神学は、共同体のそれではなくて、個人・差異のそれである。『死者の書』における死者(日の御子)の復活とは、郎女(いらつめ)における俤(おもかげ)の人というヴィジョンになっているのである。それは、美的エロスであり、神聖なもの(「数千地涌(すせんぢゆ)の菩薩」)である。死者、この場合、天若日子とは、天に逆らうものであり、天を共同体の神とするならば、その復活は共同体に抵抗する「日の御子」の復活をも意味するだろう。それは、差異、特異性における美的エロスと宗教性の復活であり、その神学は、不連続的差異論に通じるだろう。すなわち、特異性=普遍性である。ここにおいて、共同体の連続的同一性の暴力・権力・エゴイズムが解体するのである。