折口信夫の日本宗教・民俗論と不連続的差異論の結合:森羅万象多神教

私の直観を言おう。不連続的差異論の三界性(イデア界/メディア界/現象界)であるが、これを重ねて、私は差異平面と考えている。そして、イデア界の差異は特異性であり、それは、メディア界を介して、現象界においても差異=特異性となっていると考えている。これは、どういうことかと言えば、根源の差異は、確かに、現象界においは連続化されるものの、個体において、特異性を表現するならば、それは、イデア界の差異=特異性に直截すると考えている。つまり、個体の特異性において、現象界即イデア界になると思っているのである。哲学者で言えば、ニーチェがこれを体現しただろう。  
 さて、ここで、折口信夫の日本民俗論を入れて見ると、異郷から訪れる「マレビト」は、実は、イデア界の差異=特異性である。そして、それは蓑笠という現象・仮象性を着けている。しかし、本体は、イデア界の差異=特異性である。結局、「マレビト」とは、ニーチェ的存在と言えるだろう。そして、先に述べた折口の日本宗教論(天即地)をここに入れて、考えることができる。すなわち、差異=特異性を介して、折口の日本宗教論=不連続的差異論となる。ここにおいて、宗教は哲学・理論の問題となっていることに注意しないといけないし、また逆も言えることである。すなわち、宗教は哲学・理論に還元されるし、哲学・理論も宗教に還元されるということである。つまり、差異=特異性の思想とは、宗教理論でもあるのであり、結局、差異的存在であるということは、普遍的存在であり、永遠的存在であるということである。そして、これは、正に神人的存在であるということである。つまり、個体一人一人が、本体的には「神」や「仏」であるこということになろう。これは、東方キリスト教のテオーシス(神化)と通じよう。結局、差異=特異性とは「神」である。それは、本源的にはイデア界=普遍界にあるのである。そう、ニーチェが説いた超人とは、この意味だろう。神人としての超人である。ここで、さらに差異資本主義について言えば、これは、差異の強度を展開する資本経済であろう。これは、いわば、この世を「常世」・「ティル・ナ・ノーグ(常若の国)」、「神の国」・「新しい天地(ニューコスモス)」、エデンの園、浄土・仏国土等にすることを意味しよう。水瓶座の水が、「水の女」の水であり、沐浴の水であり、「日御子」の誕生のための水であるならば、それは、まさに、この日本宗教=不連続的差異論に通じるだろう。それは、多元的宗教=哲学、新しい「多神教」である。