差異の他者性:差異の指向する他者性:自己且つ他者性としての差異

一言言うと、自己と他者との相補性として差異・特異性があると思う。つまり、自己とは自己以外の他者を指向するのであり、この他者指向が、自己と他者との相補性ということである。それはあたかも、量子論における粒子と波動との相補性のようである。自己=粒子、他者=波動というような平行性であろうか。これは不連続的差異論から見ると、差異/差異(/は境界)を意味しているのではないか。より正確に言うと、ある個体的差異1は、差異1/差異xと表記できるのではないか。ただし、差異xとは、不定である。ここに、入るのは、多様な差異である。だから、差異n/差異xが差異の一般形式となるだろう。もし、これを量子論に当てはめれば、素粒子n/素粒子xとなり、素粒子nとは、他者として素粒子xを指向するのであり、この他者指向が波動ではないのか。つまり、/素粒子xが波動ではないのか。後で、より精緻に考えたい。

p.s.  差異の他者性とは、この場合は、メディア界の事象と見るのがいちばんわかりやすいだろう。ここでは、差異1と差異2とは、不連続的であったり、連続的であったりする。だから、メディア界の強度が波動だろう。差異が素粒子の粒子性であり、差異強度が波動性だろう。次のように考えてみよう。
素粒子=差異1/差異2/差異3・・・/差異n
素粒子の粒子性とは、この差異性であるが、素粒子の波動性は/である強度ではないか。もっとも単純化すれば、素粒子=差異1/差異2であり、粒子は差異1・差異2であり、波動は/ではないか。換言すると、メディア界とは、不連続/連続の境界であるのだから、不連続のときは、粒子であり、連続のときは、波動ではないか。そして、メディア界では、両者が正に相補性を成すのである。つまり、差異の不連続性(粒子)と差異の連続性(波動)が相補性を成しているのであり、両者、いわば、メビウスの輪のようであり、二分化できないのである。一如である。