不連続的差異論の誕生1

September 23, 2004 16:47

[哲学] ドゥルーズ哲学の問題点:連続性と不連続性との混同

ODAウォッチャーズ氏のご明察に導かれて、ざっと思うままに以下のことを考えた。これは、まったく暫定的な私見であり、これから、吟味・検討を深めたいと思っている。
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1) スカラー量・・・強度
2) 指向性・・・方向性・矢印、微分・連続
3) 粒としての差異と、層としての差異
4) 方向性と質量
5) 空間の不連続性・・・方向性・指向と強度・ウェイト

 ここで整理しよう。不連続の点ないし特異点としての空間(原空間と呼ぼう)ないし時空間を考えよう。差異=微分の場合は、原空間が連続体であるということだろう。それに対して、原空間が不連続であるとは、点ないし特異点の集合ということだろう。ここで、差異という言葉を使用してもいいが、それは、差異=点ないし特異点である。この差異のある種偶然の連結によって、異化=現象化が起こると言えよう。つまり、差異の連結によって、方向性・指向と強度・ウェイトが規定されてこよう。つまり、原空間・理念(イデア)的なものから、現象・物質的な存在へと異化=外化していく過程がここにはあるだろう。
ODAウォッチャーズ氏が、ここで物理学の問題点を指摘していた。理念的な点が実際のエネルギーやウェイト等をもつことの矛盾。しかし、この問題はハイデガードゥルーズの差異・異化で説明できるのではないだろうか。つまり、原空間の差異・点・特異点は、強度・力によって始動して、いわば自ら裏返しになるようにして、表面に現象を形成していき、自らは、見えなくなるのである。つまり、自己隠蔽としての差異・点・強度があると言えよう。そう、このように考えられるならば、プラトンハイデガードゥルーズは、ほぼ同一の事態を対象にしていたことになろう。つまり、現象世界、物質世界の発生・形成である。とまれ、ここで、不連続原空間ないし不連続原時空間における、差異・点の連動・連結による物質の生成・発生・創造が考えられた。
 では、私の樫村氏(K氏)のドゥルーズ(Dとしよう)哲学批判への批判にもどるとどうなるだろうか。連続/不連続の観点から見ると、K氏のD批判は、Dの差異が連続的であることであり、ニーチェの強度とは、不連続的であるということであり、両者を結合するD哲学は、根本的に間違っているということである。
このような観点からすれば、樫村氏の批判は全く正しい。Dの差異=微分の考えに問題があるように思える。正しくは、差異=点・特異点とすべきである。
そして、ニーチェという差異とは、点・特異点がある種剥き出しになっている存在と見ることができようか。通常、差異=点の連結によって、現象化が起こる。このとき、途中で偶然的にある種の微分が形成されて、それが積分されるということも考えられよう。しかし、このいわば中間微分は、元々は存在しなかったものである。これにより、ウェイトとか色とか物質化=積分が生じると考えてみよう。つまり、これは、原点から見ると、偽装・シュミラクラのようなものである。まぁ、ここまでいいとしよう。では、ニーチェの差異=特異性はどうなのだろうか。思うに、この中間微分=偽装をニーチェという存在・思想は、認めないということであろう。つまり、原点の点の集合、不連続な点の集合を表現して、中間微分の偽装を否定してしまうのだろう。これがニーチェ(哲学)の特異点であろう。これが、不連続的強度というものであり、原点、原空間、原時空の不連続的強度を表現しているということだろう。このような特異な強度を、樫村氏はニーチェに見たのであろう。すると、D哲学は、差異=微分の連続論と差異=特異性の不連続論を混同していることになり、樫村氏のD批判は正しいこととなる。しかしである。Dの記述には、後者の要素が多くあるのである。つまり、Dの差異の哲学とは、多元的不連続特異論の側面があり、それを微分=連続論で表現しているところがあるのである。
つまり、たとえば、Dの生成変化論とは、不連続的生成変化のことである。しかし、微分=連続的な表現をしているので、混乱しているのである。つまり、こういうことであろう。確かに、現象形成・生成には、中間微分のような擬態が生じて、それが、基体のように取られてしまう。しかし、表現には、別様があるのであり、それが、不連続的表現である。不連続的特異表現である。整理すると、表現・発現・現象化は二通りあるということで、一つは、差異=微分=連続的な擬態・偽装的表現・様態であり、一つは、差異=特異点=不連続的な表現・様態である。Dは、これを、樫村氏が指摘するように混同しているのである。しかし、D哲学の主眼点は、後者にあり、それを適切・適確に表現できずに、前者の表現(プラトンハイデガー)を用いてしまったと言えるだろう。
だから、私としては、D哲学の主旨を鑑みて、差異=不連続=特異性的多元的表現を取りたいと思う。そして、前者の差異=微分=連続的表現はそれを覆うもの、偽装するものとして見るべきである。そして、実際のところ、『千のプラトー』(Dとガタリ著)には、この区別がなされているのである。
 ということで、暫定的にまとめると、樫村氏のD哲学批判は、ある意味で正鵠を射ているのであるが、しかし、D哲学の主旨を十分把握していないと言えるのではないだろうか。確かに、D哲学の混乱した表現の問題を指摘しているのであり、それは見事であるが、それは一面であり、もう一面のD哲学の主旨を十分くみ取ってはいなく、風呂水とともに赤子を捨ててしまっているということではないだろうか。
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以下、ODAウォッチャーズ氏の洞察である。

ODA ウォッチャーズ (2004/09/23 12:41:23)

6年前に数学の庭教師をしていた高校生が、数学オリンピックに出て、その御蔭で、今、大学の4回生です。彼と久しぶりに会った時に、『空間にウェイト(重さ)或いはカラー(色)、又は、層を付けるアイデアを話し合いました。勿論、数学的な空間の問題です。イデア空間と考えてよいと思います。数学の立脚点は、むびょう製

ODA ウォッチャーズ (2004/09/23 12:55:32)

数学の立脚点は、完全な整合性です。所論の『強度』についてですが、数学的には、『ベクトル』のスカラー量として表現できるのでは、と思います。そして、ドルーズなどが考えている「指向性」の概念は、方向性、矢印で表現されます。この矢印が、実際に、空間に存在しているように思うのが、微分の考え方であり、連続の概念です。ところが、それが大いに疑問である。この点を無批判に受容することが出来ない、のではないか、というのが前提です。この矢印は、便宜上の概念である、と考えるのです。また、粒としての『差異』と、『層』としての差異、重層化、を考えると、そこに、見る方角、視点において、『ウェイト』が付いてきます。カラーと言っても良いと思います。現代物理学の『場』の理論ですが、電磁波の説明に良く使われますが、この『方向性と質量(ウェイト)』の面で、非常に曖昧で、これを誤魔化すために、便宜上、『場』という概念を考案しているように思うのです。この点で、整合性に問題が有ります。例えば、エネルギーについて、実体が無い、と言いながら、伝播する、大きさがある、と表現しています。確率論も同じです。アインシュタインは、単に、時空を切り離せない、ということを示しただけで、空間と時間の等価性を示しているようには、思えません。

ODA ウォッチャーズ (2004/09/23 12:59:55)

空間が不連続であることの、一つの表現が、方向性・指向であり、もう一つの表現が、『強度』『ウェイト』ではないか、と考えています。