特異性=普遍性とはどういうことなのか:イデア界のホリエモン

特異性ないし差異性の感覚ないし意識はどこから来るのか。通常の自我とは、連続的同一性である。「わたし」、「わたし」、「わたし」、・・・。である。しかし、特異な「わたし」がいる。コギトと言ってもいい。これは、「わたし」以外の誰もこれにかわることはできない。考察を展開するために、直感で言おう。これは、感覚/感情受容性に関係する。受動・内発的感情・思考である。心身的思考である。ここに特異性がある。つまり、単に頭脳で考えるのではなく、からだを通して考えるのである。身体的思考・身体的精神である。スピノザ的な観念である。(また、デカルト的であろう。)つまり、ここには、割り切れないものがある。精神でははみ出すものがある。観念・知性でははみ出すものがある。頭で考えるが、それでも、余剰がある。この過剰なもの、はみ出すもの、身体性、これが特異性に関係する。身体的知性である。身体とは、個物である。そして、私としては、特異性である。ここにあることが特異性である。通常、科学では、ここにあるペットボトルとあそこにあるペットボトルとを、同一形式の個体と見るだろう。しかし、私の考えでは、ここにあるペットボトルとは、特異性である。特異な個体である。だから、差異なのである。つまり、時空四次元は、特異性時空間である。(これは、思うに、ヒュームに近いかもしれない。)同一形式を取り出しても、これはこれである。唯名論だろうか。確かに唯名論的ではある。しかし、唯名論は、個物・個体と見るだろう。つまり、同一的形態をもった個物・個体であろう。しかし、私は、特異性・特異的個物・個体と見るのである。だから、唯名論からも離れる。持論であるが、私はこの特異性=差異がイデア界の差異と一致すると思うのである。だから、特異性=普遍性を直覚するのだと思う。では、これは何なのか。イデア的差異即現象的差異ということではあるが、つまり、現象界の連続的偽装・シミュラークルにも関わらず、イデア=普遍界の差異・特異性が現象しているということになろう。つまり、プラトン的に言えば、仮象である個体とは、イデア界の差異であるということである。差異が現象というベールを着ているものの、現象的個体とは、特異性=差異であることを隠せないでいるのである。ベールとは、カントの超越論的形式である。しかし、物自体に当たる差異は特異性として現象しているのである。カントが物自体は認識できないと考えたが、実は、超越論的形式から見れば、当然である。なぜなら、それは、一般的形式だからだ。連続的同一性の形式だからである。物自体は特異性であり、差異であるから、不可知なのは当然である。だから、物自体とは、カントに反して、直観・直覚されるのである。私見では、占いとは、不合理なものではなくて、物自体を直観・直覚しているのに過ぎない。通常、連続的同一性のベールに幻惑されているので、物自体・特異性・差異が見えなくなっているのに過ぎないのである。イギリスの詩人・版画家ウィリアム・ブレイクは、ヴェールの幻惑と真のヴィジョンを区別したが、なんのことはない。前者は、自我の幻想であり、後者は物自体の直覚である。そう、イデア界は実は、現象界においてむき出しなのだ。裸の王様である。たとえて言えば、閉鎖共同体というベールをもつフジサンケイGは、ホリエモンの特異性が見えないのである。可視と不可視、実は神秘的というよりは、現実の問題そのものである。ホリエモンイデア・差異である。イデア界の人間である。普遍界の人間である。それが保守反動には不可視なのである。そう、イデア界即現象界であり、イデア界/メディア界/現象界を重ねて、差異平面と言っていいのだ。あの世とは、この世である。この世があの世である。