近代の死:IT化とはポスト近代であり、超新代を創造する

ITは、差異経済を創造する。では、今や、衰退して、解体寸前の文学、音楽、美術等はどうなるのだろうか。メディアの問題として見るべきだろう。文学で言えば、出版社が発行して、小説等を販売した。なんとか賞で、宣伝したわけである。そして、読者層という需要者がいて、マーケットとして成立していた。しかし、今や、需要者の乏しい、プライドだけの文学の出版がなされ、採算がとれていない経済的には不合理な状態になっている。とりわけ、「純文学」という領域においてであるが。もっとも、文学だけでなく、学術書はそれ以上に売れない。経済原則から言えば、需要を無視した生産がなされているということである。誰も食べないパンを製造しているのである。では、文学はじめ、その他の需要はないのか。そんなことはない。ブログで小説や詩を書いている人はいるし、また写真や絵を画像化して発表している人もいるし、作曲等している人もいる。何が問題なのか。結局、現代に合ったスタイルが必要なのであろう。テンポの速い現代において、低速スタイルは合わない。エルヴィスのラブ・ミー・テンダーは今聴くとおそろしく低速である。そう、強度の問題と言ってもいいだろう。長短ではなく、速い遅いの違いであろう。長いものでも、高速ならば、読むものである。とまれ、私が言いたいことは、メディアの変化にともなって当然、表現のメディアが変化するのである。マスコミとIT。そう、出版社は、ある意味でマスコミである。不特定多数を需要者に見込む。しかし、この方法が今やうまくいかないのだ。本の販売は今やITの時代である。ならば、発行もIT化が必要ではないか。そして、ネットにふさわしい表現でなくてはならないだろう。また、思うに、今やPC,ITの時代で、個が表現メディアを獲得したのであり、差異メディアの時代である。マスではない。差異である。これは、どういうことかと言えば、これまでの縦割り的ジャンルが崩壊する・したということだろう。文学や哲学、哲学と経済、科学と芸術、等々の境界・壁が崩壊することである。すなわち、差異が主流になるのである。差異が共通言語となるのである。そして、不連続的差異論は、このための根拠を提供していると考えられる。差異平面が共通分母、大地、基盤、インフラとしてあるのである。ここから、ボーダレスに連結するのである。ただ、専門家は必要である。専門とボーダレス化である。
 とまれ、差異による文学・芸術・文化等々の再編が今起こっていると言えよう。では、差異的文学、差異的芸術、差異的文化とは何か。思うに、ブログ等によるインターネット空間が、今やそのようなものになりつつあると思う。古い文学作品はネットで無料で読めるようになっている。ただし、ホリエモンのように、アナログとデジタルの連結・アレンジメントとなるだろう。そして、内容であるが、より簡潔なもの、高速のものになるだろう。そう、差異としての文学とは、結局、差異としての智となるだろう。そう、極論すれば、ブログがあたらしい文学である。そして、文学とは、他領域と連結して、ポスト文学となるのである。だから、ポスト文学としてのブログである。そう、近代の枠の崩壊である。差異が王座を今や占めたのである。ポスト近代である。ホリエモンの闘争とは、ポスト近代の闘争である。理論的には勝敗は決しているのだが。