差異としての想像力について

先の考察から、想像力は、精神/身体的であるとして、差異的であると述べたがもう少し説明しよう。「赤い薔薇」を考えよう。想像力の心的空間に「赤い薔薇」のイメージが形成されるだろう。おそらく、これは夢のもつイメージ力に通じている。すなわち、感情が入るのである。共感的感情あるいは、同化的感情が入るのである。この同化的感情とイメージとの一致が想像力というものだろう。では、同化的感情とは何か。これは、コスモス的感情に通じるだろう。つまり、メディア界における強度であろう。ある種の差異の連結である。多様なゆらぐ連結である。しかし、思うに、このメディア界の差異/強度、身体/精神の領域は、ある種差異の連結状態を意味しているのではないだろうか。ガタリドゥルーズが言ったアレンジメント(アジャンスマン)という状態ではないだろうか。あるいは、カオスモスだろう。くっついているし、また離れている。そう、彼らが離接と言った状態だろう。このいわば、離接感覚の一部が上述した同化的感情だろう。すなわち、離接の接が、同化的感情だろう。そして、イメージ、つまり、視覚的形態自体が離接の離だろう。だから、まとめると、想像力、イメージ力とは、メディア界の離接的感覚・心身の作用であると言える。だから、差異としての想像力と言った場合、それは、メディア界における差異としての想像力ということになる。
 さて、ここで付加すると、すぐれた芸術とは、メディア界を表現していると言えるだろう。つまり、夢のイメージに似た想像力をもつのである。いわば、メディア界のリアリズムである。現象界の写実主義ではない。そして、想像力によってメディア界を養成・形成することによって、個としての特異性を培うことになるだろう。なぜなら、単に言語的形式だけならば、それは同一性の論理であり、差異・特異性がないからである。メディア界、差異/強度の感覚・心身を発達させて、言語的連続的同一性に基づき、差異/強度性を構築するのである。
 では、メディア界の育成・形成が、どうして特異性につながるのか。それは、メディア界のゆらぐ特性が言語的連続的同一性を脱構築するからである。たとえば、ルイス・キャロルの世界は、連続的同一性の世界を解体し、結局、特異性を形成していると言えよう。丁寧に言おう。メディア界は、連続的同一性を解体し、多元的な世界を指示する。しかし、差異の特異性を指示するだろうか。それは、差異の特異性を表現するだろう。なぜなら、メディア界には差異が強度ともに存しているからだ。たとえば、セザンヌのリンゴは、リンゴという差異の特異性を表現している。また、ゴッホの糸杉は、糸杉の差異の特異性を表現している。ただ、それらが環境の差異と離接しているだけである。
 ということで、差異としての想像力を説明したこととしよう。