言語イメージ形成は何を培うか

文学による言語イメージの世界は精神に何をもたらすのか。ロゴス・精神的感覚知覚をもたらすだろう。想像力と言われるものであるが、それは何か。感覚が身体性ならば、想像力は、ロゴス・精神に感覚像を与えるものだ。しかし、その感覚像は、内在的に創られるものだろう。「赤い花」と言ったとき、それは、赤いという色彩を内的に想起するのであり、花も内的に想起するだろう。確かに、経験的に「赤い花」を感覚知覚している。しかし、文学で、「赤い花」と表象されたとき、それは、何らかの外的な「赤い花」ではなくて、読者の内在的な「赤い花」となるだろう。では、その「赤い花」の「質料」はどこから来るのかだろうか。直感で言おう。それは、身体から来ているのである。というか、精神と身体との境界から発していると思う。それが想像力の根元・基盤だと思う。換言すれば、差異/強度から想像力が生まれるのである。メディア界的である。「赤」、「花」という「イデア」を想起して心的に造形するのである。とまれ、想像力、文学の想像力は、メディア界的心身力である。しかし、いわゆる、リアリズム、写実主義は、想像力を単なる受動的な作用にしてしまうのだろう。反射的な造形力にしてしまうのだろう。内在的ではなくて、外在的にしてしまう。これは、自我的感覚を喚起するだろう。そして、内在的メディア界的想像力を形成しないだろう。novalis666氏の理論から言うと、「無いもの」、不可能性を形成・造形することだろう。そう、差異としての想像力である。
 では、現代における文学等の衰退を見ると、それは、差異的想像力の衰退だと言えるだろう。物語りの物とは、物自体であり、差異だろう。差異語りである。詩の衰退とは、やはり、差異的想像力の強度の衰退である。結局、資本主義のもつ連続的同一性のマイナス強度がプラス強度を排出しているのだ。つまり、資本主義は、基盤は差異ではあるが、その駆動力として同一性である貨幣や資本を必要とするし、同一性として表象される利益がある。すなわち、資本主義は、差異と同一性との複合体であるのだが、可視的には同一性=利益なのである。だから、この可視的な同一性のマイナス強度が突出すると、差異が衰退するということになり、文学・芸術の衰退となるだろう。結局、これは、資本主義自体の衰退でもあるだろう。ニーチェは、経済と芸術とは反比例するようなことを述べたが、これは流石のニーチェも短絡的であったのではないだろうか。経済の創造力と文学・芸術の創造力とは平行するだろう。イタリア・ルネッサンスを見よ。古代ギリシアの地中海貿易の発展を見よ。唐の時代を見よ。日本の中世から近世の時代を見よ。また、いわゆる失われた10年の日本を見よ。経済の創造力の衰退は、文化の衰退と平行した。結局、現在2005年の3月、微妙な状況にある。理論的には、不連続的差異論やアポスターズ論のような独創的な理論が現代日本で生まれているのである。また、ホリエモンのような、差異主義も誕生している。なんとか、保守反動の超壁を破砕して、創造力あふれる社会にしたいものだし、そうしなくはならないだろう。今や崖っぷちジャパンである。邪馬台国よ、目覚めよ!