差異と物自体:個体・個物における差異と物自体

この問題は、以前にも触れたが、もう一度整理確認したい。もっとも、今はあまり余裕がないので、簡単に述べることになる。連続的同一性である自我は、感覚形式認識(超越論的形式)はできるが、物自体は認識できない。物自体とは差異と言っていい。そして、この差異をベルクソンドゥルーズ的な連続的差異(差異=微分)にとっては絶対にならない。この差異は不連続的差異、特異性の差異、そして複数のそれとして把捉すべきである。
 ここで具体的に考えよう。たとえば、太陽電池の性能が向上して、安価に発電できる技術が発明されたとしよう。この新太陽電池とは何か。既成の太陽電池は、いわば連続的同一性である。それと資本が結びついている。しかし、新太陽電池は、ある無名の技術者が発明したものであり、信用性に乏しい。公的には怪しいと思われるだろう。すると、この新太陽電池は、物自体である。差異である。不連続的差異である。連続的同一性の認識の格子には当てはまらないのであるから。この事態はライブドアにあてはまるだろう。物自体、差異、不連続的差異としてのホリエモン。当然、反発され、攻撃され、排除される。しかし、いったん、この差異が説得力をもつことが証明されれば、立場逆転で、この差異が連続的同一性を形成するだろう。ここには、差異/同一性の相対的転換の力学がある。つまり、ここでの差異とは相対的である。だから、相対的差異論と呼んでもいいだろう。(p.s. この箇所にも問題がある。新たな差異が承認されて、連続的同一性になると述べたが、確かにそれで一般的には間違っていない。しかし、ホリエモンの場合は、差異主義、差異資本主義であるから、果たして連続的同一性になるのだろうかという疑問がある。ホリエモンの場合は、当てはまらないだろう。つまり、ホリエモンの場合は、以下の「コギト」に当てはまるのであるから。)
 さて、他方、絶対的差異論がありえるだろう。これは、イデア普遍界に存する差異、不連続的差異、特異性である。つまり、先に述べた相対的差異とは、現象界の地平に存したのであり、今問題にしているのは、イデア普遍界における差異である。あるいは、メディア界の差異である。では、この絶対的差異と相対的差異とはどう関係するのだろうか。たとえば、前者として、コギトを考えよう。後者は先の新太陽電池としよう。コギトは、他者との絶対的差異である。新太陽電池は、既成の太陽電池と相対的差異を成す。しかし、両者、特異性とは言えるだろう。とまれ、イデア普遍界という超越的次元の差異と現象界という水平的次元の差異との差異は何であるかである。ここで、後者の差異をもう少し詳しく見てみよう。新太陽電池は新しい要素が入り、また、新しい回路をもつ。つまり、創造性があるということである。既成のものの新たな組合せ、順列化である。しかし、既成のものを差異と見るなら、差異の新たな組合せ、順列化である。すると、この現象・水平的次元においても、イデア普遍界のような不連続的差異の組合せ、順列化が考えらるだろう。これは何を意味するのか。思うに、相対的差異論は絶対的差異論のように扱うことができるということでないか。そして、両者は普遍的差異論として統一できるのではないだろうか。このような理論・定理が形成されるならば、ライブドア/フジ問題も、差異資本主義の問題も、不連続的差異論によって、完璧に整合的に説明・解明できるだろう。すなわち、普遍的差異論としての不連続的差異論、あるいは、普遍的不連続的差異論が超越的次元と水平的次元が一致した言わば差異平面において、これらの問題、さらに森羅万象、万有を説明するだろう。だから、新太陽電池とコギトは差異として共通化できるのである。私は、以前、イデア普遍界の差異は、特異性として現象化していると述べたが(今でもそう考えているが)、これも、普遍的特異性論となることができるだろう。そして、これは、結局、普遍的不連続的差異論に内包されるのである。

p.s. 以上の論は、説明不足の点がある。コギトをイデア普遍界にあると述べたが、それは正しくない。コギトは、現象界にある。だから、特異性としては、新太陽電池と同じである。私が言いたかったイデア普遍界にある差異としての「コギト」とは、特異性としての不連続的差異とその境界のことである。それは、人間の意識を発生させる差異/境界である。これを元コギトないし原コギトと呼んでいいだろう。だから、上記の論のコギトは、元コギト、原コギトと読んでいただきたい。

p.p.s. 上述の論は、つぎはぎが多いので、後で整理したい。