「こころ」・「たましい」と自我:不連続的差異論の視点から

差異はコギト(我思う)を生み、意識のゆらぎをもたらす。私は、身体であったり、考える存在であったり、他者に共感したり、反発したり、様々に揺れ動く。分裂的な存在としてのコギトが存する。なぜ、ゆらぐのかと言えば、不連続的差異論によると、メディア界という媒介となる領域において、複数の不連続な差異が擬似的に連続化するのであるが、そのとき、差異が多様に変化するように見えるからである。(ラカン精神分析論で言えば、ほぼ想像界に相応するだろう。ただし、これは目安として言うのであり、精神分析は批判されるべきものである。)たとえて言えば、人を正面から見るのと、背後から見るのと、頭上から見るのとでは、形状が異なるようにである。このメディア界において、多様性、多元的共存が生起していると言えよう。しかし、言語形成によって、このゆらぎが制御されるようになる。これは、言語的同一性による差異の同一性化と言っていいだろう。そして、この言語的同一性とともに、自我が形成される(これをコギトと同一視してはいけない)。このとき、メディア界の差異は反動暴力により排出隠蔽(消隠)される。同一性言語=自我による二項対立・二元論・善悪道徳論が発生する。権力・権威の発生である。
 それでは、「こころ」や「たましい」は何なのか、どこから発生するのか。あるいは、道徳でなく、倫理は。共感性は。これは、スピノザ哲学の考えを借りよう。メディア界にもどると、ここは、プラス強度とマイナス強度が交差する領域である。プラス強度とは、差異が差異として存する強度であり、能動強度であり、肯定である。マイナス強度とは、差異が擬制的に連続化する強度であり、反動強度であり、否定である。前者のプラス強度において差異が差異として肯定されるのであり、この精神性がスピノザの言う基本的な歓びの感情であろう。そして、後者のマイナス強度が基本的な悲しみの感情であり、ルサンチマンとなるものであろう。結局、「こころ」や「たましい」とは、前者のプラス強度の精神性にあると言えよう。すなわち、メディア界におけるプラス強度による精神が「こころ」や「たましい」であるということになろう。そして、これは、差異と差異とを共立させるものであり、差異が身体にかかわるものであることを考えると、当然、プラス強度の精神である「こころ」や「たましい」は、身体活動を活性化することになると言えよう。メディア界の活性化である。(スピノザの心身平行論は、このような視点から肯定されるだろう。)
 以上から、「こころ」や「たましい」を客観的に論理化することができた。それは主観的なものというよりは、差異客観的なものである。精神のリアリズムである。そして、言語的同一性による自我とは、反動的なものであり、「こころ」や「たましい」を排出隠蔽(消隠)するものである。すなわち、残忍であり、無残であり、冷酷無情であり、凶悪等であるということであり、正に悪魔・悪霊である。近代主義とは悪魔主義なのだ。そう、ここでは差異と自我との対立がある。コギトと自我と言ってもいい。結局、この悪魔主義と資本主義が一致するのであり、戦争は起きるのは必然である。近代資本主義とは本性から残忍無残なのであるから。
 最後に、この悪魔=自我とキリスト教の関係を言って、本稿を閉じよう。キリスト教と言っても、西方キリスト教のことである。西欧・米のキリスト教である。これは、ヨハネ福音書のロゴスを言葉と誤訳して成り立っているものであり、またフィリオクェ主義(子とともに)によって、二元論となっているものである。まず、ロゴスの喪失がある。これは、普遍界の喪失である。そして、フリオクェ主義とは、聖霊の喪失である。父が子(キリスト)ともに聖霊を発出するという西方キリスト教の教義は、父が地上・現象化することである。では、聖霊とは何か。それは、メディア界のプラス強度のことである。わかりやすく言えば、歓びの感情である。特異な歓びの感情である。名状しがたい歓びの感情である。至福の感情である。それは、差異の共存の感情である。イデア普遍界に類似したプラス強度の感情である。父が地上・現象化しために、そのような聖霊の超越的高度・深度が喪失されたのである。すなわち、西方キリスト教によって、聖霊が破壊されて、結局、マイナス強度中心の父権的自我が形成されたと言えよう。反動性による自我が、西方キリスト教の絶対性によって肯定されたのである。つまり、悪魔的自我が西方キリスト教によって肯定されて形成されたのである。これが近代資本主義と一如・パラレルである。つまり、聖霊が滅ぼされたので、強度は反動化してマイナス強度になり、自我が絶対的に肯定されたのである。つまり、悪魔であることが積極的に評価されたのである。つまり、西方キリスト教とは悪魔教である。そして、それが、超越的一神教であるから、超悪魔教なのである。ヨハネ黙示録は逆に読まないといけない。アンチキリストとは、西方キリスト教であり、とりわけアメリカ合衆国国家である。ブッシュはアンチキリストである。