イデア界と普遍界:イデア論と不連続的差異論

私は、理論の検討を通して、不連続的差異論の基本的な概念の名前を変更したが、また疑問が生じたので、それを書いてしばらくブログを休むことにする。
 結局、プラトンの説明では、イデアは同一性の原型となる。超越論的形式となる。しかし、直感では、イデア論には、超越界、超越性、普遍界のようなニュアンス、含み、余韻がある。有名な洞窟の比喩には、確かにそれがある。そのイメージに、単なる同一性の原型を超えた示唆・暗示が感じられるのである。この超越的な感覚、これがイデア界という言葉を喚起させるものだと思う。そして、用語を変更するまでの不連続的差異論におけるイデア界とは、そのような意味合いをもつものとして存したのである。つまり、意味としては、超越的な普遍界としてのイデア界として把捉されていた。だから、プラトニズムに潜んでいる普遍界としてのイデア界を取り出したと考えればいいと思う。つまり、プラトンは、イデアによって、普遍界を示唆する、あるいは、普遍界を指した連続化した差異を捉えていたと考えることができよう。結局、イデアとは、メディア界における差異である。そして、それは、普遍界の差異を示唆しているのである。つまり、イデアという概念は両義的なのである。一方では、普遍界を指し、他方では、原型性、超越論的形式を指している。だから、この機微さえ認識していれば、不連続的差異論においてイデア界という用語を用いても誤りではない。すなわち、普遍界としてのイデア界である。そして、原型としてのイデアは、やはり、原型イデアと呼べばいいのである。だから、

イデア(=普遍)界/メディア界/現象界

とすれば、問題はないのである。