グローバリゼーションとは何か:構造資本主義から差異資本主義へ、さ

グローバリゼーションとは何か:構造資本主義から差異資本主義へ

資本主義とは何かの問題でもある。結局、西欧・米中心の資本主義は、国民国家資本主義であり、帝国主義となった。そして、その闘争の中から、米国が中心となった。しかし、ロシア革命という、反動的な国家資本主義=「社会主義」が成立して、西欧・米の資本主義と対立した。冷戦である。これは、結局、近代主義内の闘争である。そして、「社会主義」が破れた。ここから、米国中心の資本主義がその牙をむき出しにしたのがグローバリゼーションである。新自由主義である。それは、民主主義をイデオロギーにしている。しかし、本質は、間接民主主義、代議制民主主義という近代的資本主義に適した政治体制の支配である。すなわち、表面的には、グローバリゼーションとは、近代主義の延長である。しかし、それだけだろうか。
 結局、グローバリゼーションは、資本主義が本質的に国際経済・世界経済であることをむき出しにしたのである。国家は目的ではなく、手段に過ぎない。国家は、法的な調整機関に過ぎない。すなわち、グローバル・エコノミーの世界地域的法的調整機関に過ぎないということである。これは、何を意味しているのか。すなわち、国民国家という枠を形成した近代主義の終焉ということである。観念論的同一性主義、構造主義、連続的形式主義の解体ということである。資本主義は、利益という量的差異を追求するが、そのためには、質的差異が、すなわち、差異、差異的価値、差異的資本が必要なのである。近代帝国主義植民地主義の時代ではない。すなわち、資本の利益を上げるには、基本的には、差異が必要となったのである。これは、特異性ということでもある。これまで、近代主義は、カント/ヘーゲルマルクス的な連続的同一性・構造主義であり、差異・特異性を否定し、隠蔽してきた(消隠)。しかし、ポスト近代主義であるグローバル経済において、今や、資本主義は、差異・特異性を必要としているのである。差異・特異性が利益を生む金の卵である。これは何を意味するのか。ポストモダニズムポスト構造主義を批判的に継承創造したと考えられる新しい理論である不連続的差異論に拠るなら、差異・特異性が主導的強度(エネルゲイア)をもち、資本主義をも変容するだろうということである。今は、差異資本主義の時代である。しかし、その先は、差異・特異性自体が主体となり、差異・特異性のための経済の時代となるだろう。それは、差異・特異性の創造=生産となる経済だろう。差異創造経済となるだろう。差異資本から差異価値へと変換するだろう。とまれ、それは先の話で、今は、差異資本主義の時代である。

p.s. もう少し整理しよう。近代主義/近代資本主義とは何であったのか。私見では、イタリア・ルネッサンスという形で、最初の近代資本主義が勃発した(本当は、中世、アラブ、古代ギリシア等と遡らないといけないが、大きな転換点として、これを取り上げるのである)。それは、差異の覚醒である(歴史では、かつて、個人の誕生と言われたが)。そして、それは、古代ギリシアの学芸を「輸入」して、メジチ家等を中心にして展開したと言えよう。そして、差異とは、同時に、個ということであり、自我、自己ということである。そして、それは、デカルトのコギト(我思う)へと導かれる。差異の覚醒は当然、中世の連続的概念であるキリスト教ヒエラルキーと衝突する。それを文学で表現したものはシェイクスピアであり、セルヴァンテス他の巨匠である。しかし、問題は、この差異の噴火は、反動化する運命にあった。すなわち、宗教改革プロテスタンティズムである。これは、差異の自我化によると見ていいだろう。すなわち、差異の近代主義化である。これを文学では、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』が描いている(もっとも、差異【初期資本主義】の奔放な側面をデフォーを描いているが)。つまり、差異の個人的所有主義である。差異の資本主義化である。結局、差異の近代主義=資本主義化である。そして、これに近代科学・技術と近代的国民国家体制とが結合する。これが、近代主義総体である。(フジサンケイ・グループとは、これを体現している。)
 しかし、当然、差異の近代化とは、差異の閉塞も意味する。差異が構造化されることである。(日本の90年代以降の閉塞とはこれに拠る。)とまれ、20世紀において米国が資本主義の中心となり、また資本主義への反動として社会主義(国家資本主義)が生起した。冷戦である。しかし、反動は、差異をより閉塞させるものであり、結局資本主義に敗れた。そして、悪名高きグローバリゼーションの支配である。これは上述したので繰り返さないが、一言述べれば、資本主義とは、差異を同一性へと転換する経済システムであり、基本において差異が必要である。しかし、近代主義は、資本主義の基盤である差異を閉塞させて同一性=構造化してしまった(ある意味で、近代資本主義は社会主義と同形である)。閉塞状態である。しかし、資本主義は日進月歩である。量的差異である利益を生むために差異を活用するのだ。グローバリゼーションとは、資本主義がある意味で先祖返りしたのである。すなわち、差異の再発、再活性化、新生である。すなわち、ポスト近代主義である。差異が再噴火したのである。再ルネッサンスである。そして、これは、差異資本主義であり、差異創造経済である。このポスト近代主義を、いわゆるポストモダニズムポスト構造主義の理論は目指していたが、それらの内部に構造主義という近代主義が残存していたために、それは、真正なポスト近代主義の理論にはなれなかったのであるが、今や、ODA ウォッチャーズ氏と私の合作である不連続的差異論によって、真正のポスト近代主義の理論が創造されて、以上のような立論が可能になり、また危機的な時代を超克する視点や洞察力をもたらすことができようになったと確信自負するものである。