差延について:差延と普遍界

差延とは、ほぼ差異、不連続的差異であると見ていい。しかし、デリダが批判する「根源」とは、同一性の根源=形而上学=「ロゴス/音声言語中心主義」であると見ていいだろう。これは、イデア論や形相論等の西洋観念論やそのアンチテーゼである同形の唯物論の批判である。しかし、ならば、差延の根源を考えられるはずなのに、デリダはそれを無視する。あるいは、差延という根源を考えられるはずである。しかし、デリダはそうはせずに、「根源」を脱構築するのに留まった。それは、差延を論述する言語がやはりロゴス中心主義だからということからである。
 ここで、丁寧に考えよう。果たして、言語はロゴス中心主義なのか。また、それ以前に、ロゴス中心主義とは何か。後者を考えよう。デリダの批判したロゴス中心主義は、戦略的な用語である。それは、同一性=ロゴスということである。だから、ロゴス=イデアと見ていい。しかし、ロゴス=音声言語であろうか。デリダが論述に用いた言語は、音声言語ではあるが、音声言語は必ずしも、ロゴス=同一性ではない。簡単に言おう。たとえば、特異性という「ロゴス」は、同一性ではない。特異性という言葉自体は同一性ではあるが、内包されているものは、同一性ではない。だから、音声言語は、ロゴスではあるが、それは、ロゴス=同一性ということにはならない。ロゴス=特異性(差異)ということもあるのである。つまり、デリダは、ロゴス=音声言語=同一性と固定したために、袋小路に陥ったのである。自縄自縛である。ロゴスは、同一性でもあるし、また差異、特異性でもある。
 ということで、「根源」・同一性の根源を超えて、差延の根源があるのである。それは、普遍界である。