不連続的差異論の術語:普遍界/メディア界/現象界

不連続的差異論の術語:普遍界/メディア界/現象界

先に、イデア界を差異界と変更したが、このことの意味を再確認しておこう。
ここで、イデア・理念について確認しよう。これは、知覚される物質的並びに精神的現象の根元・本源を意味するものである。現象界には存しないためにイデア・理念と呼ばれるのである。つまり、机という現象の根元・理念としてイデア・理念としての机を想定するのである。つまり、イデアとは、現象の同一性の根元性を指す。ここで、同一性の根元であることに強く注意しないといけない。つまり、イデア・理念とは同一性の基礎概念である。
 さて、これに対して、ジル・ドゥルーズは、差異という概念を用いて、プラトン哲学を批判したのである。同一性ではなくて、差異が根元にあるとしたのである。しかし、ドゥルーズは、差異の次元をイデア・理念としている。これは、術語の混同、混乱である。同一性の根元としてのイデア・理念の次元があるのであるから、差異の根元をイデア・理念とするのは、混同・混乱である。だから、根元界、本源界、超越界、始原界、原初界、元界等々と呼ぶ方が的確である。故に、イデア・理念とは、一つの根元界を指す。しかし、それは、同一性の根元界に過ぎない。だから、差異という根元の存する次元は、イデア界・理念界ではありえない。別の呼び方をしないといけないのである。
 結局、差異界に変更したのである。しかし、それを普遍界と呼ぶことができるだろう。それも正確に言えば、特異性普遍界である。ということで、不連続的差異論の三界性は、

普遍界/メディア界/現象界

となるだろう。普遍界に不連続的差異(特異的差異)が存するのである。そして、イデア・理念とは、メディア界に存するのである。また、コーラであるが、それは、メディア界全体を指すであろう。そして、イデアイデアプラトンが呼んだ善のイデアであるが、それは普遍界を示唆する。もう少し、丁寧にみよう。普遍界には不連続的差異が境界に隔てられて存している。しかるに、90度回転によって連続化(擬制)される。これがメディア界である。これがプラス強度をもち、反作用としてマイナス強度を生起する。これで現象界に捩れ、らせん的形状・運動をもつ。すなわち、らせん的に普遍界に回帰するのである。 さて、ここで、プラトンイデアを見ると、それは同一性の根元であるから、普遍界にあるのではなくて、メディア界にあると言うべきである。なぜなら、メディア界において差異は連続化(擬制)して、同一性の根元(元分節)を形成すると考えられるからである。では、イデアはメディア界のどこに存するのだろうか。それは、90度回転した軸ないし境界に存するだろう。しかし、イデアと固定したことで、それは、軸・境界の元分節そのものと見るべきだろう。これが、メディア界の現象面である。そして、コーラは、メディア界全体である。それでは、イデアイデアである善のイデアはどこに存するのか。イデアイデアとは端的に差異であろう。それは、軸・境界に存していると言えるし、普遍面にあると言えよう。しかし、普遍界には存しないだろう。なぜならば、イデアとは畢竟、同一性の根元だからだ。差異ではない。ということで、本件に関して整理できたであろう。ここで図示してまとめよう。


【1.普遍界・不連続的差異】
/Α)普遍極=「善のイデア」/
【2.メディア界(=コーラ)】
/Β)現象極=「イデア=超越論的形式=構造」/
【3.現象界・連続同一性】


なお、/Α/は、1と2の境界であり、/Β/は2と3の境界である。だから、プラトンイデア界とは、現象極にあり、それはカントの超越論的形式の次元と等しいこととなる。では、カントの物自体はどこにあるのか。それは、メディア界ないし普遍極である。正確に言えば、普遍極で、「善のイデア」と一致しよう。カントも差異自体を捉えていないと言うべきだ。