自我暴力とはどこから生じるのか:連続的強度(マイナス)と不連続的

分かりやすくするため、不連続的差異論の三界性を確認してから始めよう。


1.イデア界・・・不連続的差異(差異/虚度)


            不連続的差異
2.メディア界・・・___________±強度
        
           連続的同一性(擬制


3.現象界・・・連続的同一性(言語分節・二項対立)


2のメディア界から本件を検討しよう。メディア界はイデア界の虚度を受けて、±強度をもつ。不連続的差異の共立態(順列)は、プラス強度をもち、連続的同一性(擬制)はその反動としてマイナス強度をもつ。ここで、両強度は相殺されて、虚度へと還元する。それは、捩れやらせん的回帰という形状をとる。
 さて、強度の関係について考えたい。連続的同一性のマイナス強度は、不連続的差異のプラス強度とは相容れない。というか、プラス強度に対応してマイナス強度が喚起されるのである。それはいわば捩れである。不連続的差異が裏側に捩れて表側に連続的同一性の擬制の形状が生起するのである。現象界とは、このマイナス強度(反動強度)によって現出されているのだ。裏側、内側に不連続的差異あるいはゆらぎを消隠しているのである(比較:ドゥルーズの内在性)。しかし、この連続的同一性を帯びた自我的個体に対して、不連続的差異性を帯びた特異的個体が存するのである。後者は、プラス強度を帯びている。この新たなプラス強度とは、特異的個体が特異的に保持し、培ったものである。このプラス強度は連続的同一性の自我のマイナス強度に対して反発する作用をもつ。自我側は、必然的に、プラス強度の不連続的差異・特異性の他者に反感して、連続的同一化する。プラス強度を消隠するために、マイナス強度の連続的同一性の自我を押しつけるのである。押してつけて、他者を消隠せんとするのである。つまり、開いた裂け目である、不連続的差異・特異性・他者を、連続的同一性・マイナス強度・自我を押しつけて(反動暴力)、掩蔽消隠せんとするのである。連続的同一性の現象界に開いた亀裂である不連続的差異を抹消無化せんと暴力を振るうのである。これが、イジメである。権力である。権威である。支配である。
 では、問題はマイナス強度的である自我である。強度は虚度に回帰するのであるから、本来マイナス強度もプラス強度と均衡しているはずである。しかし、マイナス強度の自我は固着し、変化を拒絶する。「保守反動」である。これは何故そうなのか。自我がマイナス強度に固着執着するのは何故か。つまり、イデア界の虚度が、プラスとマイナスの二項対立を形成すると言えよう。つまり、プラス強度を消隠するようにマイナス強度の自我(連続的同一性・現象)が形成されるのである。しかし、虚度はさらに「回転」して、自我構築を解体する方向に動く。つまり、自我マイナス強度に対する、差異のプラス強度が新たなに作用するのである。これが本来の個体の変転である。しかるに、自我が固着するのは何故か。これは不自然さ、一種狂気である。これは思うに、社会の問題である。個体においては、強度は変容してプラスからマイナスへ、マイナスからプラスへと変転するのである。しかし、個体は、連続的同一性において社会を形成する。連続的同一性(反動暴力)の共同体である社会を形成するのであり、この連続的同一性の連続的同一性である共同体社会(父権・権力社会)が、マイナス強度の「気圏」・圧力圏をもっているのである。この反動的「気圏」があるから、保身のため、個体における発動するプラス強度(不連続的差異・特異性)を消隠させるのである。つまり、個体の本来もつ強度の弱さから、反動性が固着すると言えるだろう。あるいは、個体の強度を認識させる「叡智」が社会から喪失していることが原因とも言える。だから、個体の強度の弱さないし、強度的叡智の喪失が、この原因と考えられる。私見では、後者の要因が強い。近代日本の場合、特に戦後、アメリカ資本主義に洗脳されて、叡智文化を喪失したのであると考えられるのである。だから、今日、自我のマイナス強度の暴力性が満ちているのである。そう、アメリカ資本主義による洗脳、それも、村落共同体性と結びついたものだから、差異はさらに消隠されたと言えよう。