差異について:個体的差異再論

先に、個体とは、原点の差異の連続的差異であると述べたが、これは端的に言うと、誤りであるので、訂正する。では、個体とは何かである。これは、原点の差異(差異/虚度ないし差異/強度)の展開である身体ある「コギト」・「我思う」である。ただし、連続的同一性である自我に多かれ少なかれ掩蔽されている。だから、個体とは、コギト/自我である。これが近代の個体である。そして、近代主義とは、この複合体の展開であり、連続的同一性=自我が国民国家資本主義と連続的同一化したものあり、同時に内在するコギトが「疎外」される様態をもつ。そして、近代主義、近代資本主義の発展は、限界を迎えるのである。それは連続的同一性の枠、超越論的形式=構造による限界である。また、内在・内包的に、コギトの側面・特異性・差異が深化するのである。結局、近代主義は、個体の矛盾の壁にぶつかり、無視されているコギト・特異性・差異が創造・経済文化的展開を求めているのである。このように個体を見ないといけないのである。
 さて、もはや、事態は明瞭明晰明快である。私説ではあるが、プロテスタンティズムに抱え込まれていたルネッサンスがふたたび発火するのである。個・特異性・差異・コギトが震動噴火するのである。これまでの地形が爆砕されるのである。あたらしい造山運動である。あたらしい富士山の生成である。根源から賦活されるのだ。