差異のありかたについて:差異新時代・差新代へ

先に、フジ/ライブドア合戦を、不連続的差異論から分析したが、差異について今一つ不明瞭なので、ここで説明しよう。
 IT産業の場合、顧客や社員が差異になると言った。では、この場合の差異と、不連続的差異論プロパーの差異との相違点を見てみよう。後者はいわば、原点としての差異、不連続的差異を見ているのに対して、前者は個体における差異を見ているのである。ここでざっと図示すると、

1.原点差異→2.連続的差異→3.個体(差異)→4.連続的個体(マス)

のようになるだろう。不連続的差異論プラパーの差異とは、1である。そして、IT産業の場合の差異とは、3である。問題は、3の差異の意味である。従来のマスとしてのテレビ放送とオン・デマンドのテレビ放送を考えてみよう。前者にとって視聴者とは、連続的同一性である。抽象的な数である(視聴率)。しかし、後者にとっては、視聴者は、連続的同一性や数ではなくて、差異と呼ぶべきものだ。個別性と呼べるだろうか。個別性と呼んだとしても、それは、連続的同一性であるマスに比較すれば、差異である。この場合、個別性が差異となる。ここでの差異は相対的な差異である。しかしである。単に相対的な差異だけであろうか。私の直感では、ここの差異には、特異性が感じられるのである。その個体が自我ではあっても、特異性があると思う。何故か。それは、連続的同一性である自我は、差異をいわば追放して隠蔽しているからである。つまり、連続的同一性である自我であっても、基盤に差異、特異性があるのである。だから、個別性という相対的差異であっても、特異性があり、それは、原点の差異に通じるのである。だから、3の個体である視聴者は本来の意味で差異(=特異性)と呼んで正しいのである。ただし、その差異が未発達ではある。とまれ、IT産業によって、従来の連続的同一性のマスの経済(連続的資本経済)から、差異的経済(差異資本主義)へと革命的に転換することが考えられるのである。これは、超脱近代である。差異資本主義という革命である。国民国家資本主義という近代主義の瓦解であり、差異が連結するあらたな経済文化期(連差異資本文化期)に突入したと言えよう。これは、西欧ないし欧米の枠を突破するものである。つまり、ヘーゲル哲学的な似非理性主義(=国家主義)の解体である。一神教キリスト教父権制の解体である。桎梏となった自我形式(構造)の解体である。差異新生である。いわば、差異新時代、差新時代、差新代である。