フジ/ライブドア「源平合戦」あるいは壇ノ浦の戦い:不連続的差異と

不連続的差異と連続的差異・同一性:フジ/ライブドア源平合戦」あるいは「壇ノ浦の戦い」を分析する

連続的差異ないし連続的同一性とは、不連続的差異を否定放逐消去隠蔽して成立する(消隠という語を造語したい)。ここには、消隠の反動暴力が作用している。それは、不連続的差異を見つけたら、反動暴力的に消隠するのである。(なお、消隠とは、イジメの起因である。)
 さて、フジサンケイ・グループとは、テレビ、新聞、ラジオというマスコミの三点セットないし三位一体を成している。ここには、マスコミという概念が中心となっていて、それは、構造主義的に、マスコミ以外を排除する力学をもつ。マスという形式、それは、差異ではなくて、連続的差異/連続的同一性の概念である。国民1,国民2、国民3、・・・国民nをそれぞれ、差異1,差異2,差異3,・・・差異nあるいは、特異性1,特異性2,特異性2,・・・特異性nと見ることができる。マスとは、これを等号で結ぶものである。すなわち、国民1・差異1・特異性1=国民2・差異2・特異性2=・・・=国民n・差異n・特異性n=連続的差異/連続的同一性=同質性/一般的形式性=マスである。つまり、ここでは、連続的同一性の反動暴力の消隠が機能しているのである。差異(不連続的差異)、特異性が消隠されている。これが、マスコミの反動性である。当然、権力的であり、国家権力、資本(金融)権力と結びつき、癒着的に連続化する。これが、フジサンケイ・グループの構造性である。平家である。日枝平氏である。これに対して、若武者、源氏のライブドアが出陣したのである。これは何か。
  ライブドアは、いわゆるIT関連産業である。平俗に言えば、インターネット・ビジネスである。これは何か。マスコミではないことは明らかだ。これは、差異のビジネスである。不連続的差異、特異性のビジネスである。顧客は差異である。顧客1=差異1、顧客2=差異2、顧客3=差異3、・・・顧客n=差異nである。すなわち、差異の企業であり、企業自体が差異と言えよう。あるいは、不連続的差異の共立態である。つまり、企業は差異である顧客に対応するのであるから、当然、販売する側も差異とならなくてはならない。なぜなら、顧客の差異性に対応するということは、差異を認識するということであるから、企業側は、差異化されるのである。つまり、差異を認識するには、受容側が連続的同一性では不可能であり、受容側が差異でなければならない。連続的同一性は差異を排除するのであり、差異は差異が認識するのである。これは認識論の問題である。カント哲学で言えば、超越論的形式は、連続的同一性を認識するが、物自体を認識できない。物自体とは差異(不連続的差異)、特異性である。ここに認識論上の決定的な問題がある。知と無知の問題でもある。可視/無視の問題である。物自体である差異を認識するには、認識者が連続的同一性であっては不可能である。差異を認識するには、当然、連続的同一性を越えなくてはならない。つまり、連続的同一性の反動暴力性をもつ二項対立性を越えた認識力が必要である。つまり、認識者自身が二項対立性を「脱構築」、脱構造化していなくはならないということになる。ということは、二項対立性が成立する以前の状態である差異の精神をもっていなくてはならないということになろう。だから、差異である顧客を認識するのは、差異である社員であり、差異を肯定する企業である。以上から、IT関連企業の哲学的意味が判明しただろう。
 では、この観点からフジとライブドアの戦いを見るとどうだろうか。連続的同一性の前者は差異である後者を無視し、そして、後者は、差異という経済の観点から、前者の差異的潜在性を見るのである。すなわち、インターネットとの連結によって、前者を差異化するのである。それによって、差異である顧客を創造するのである。そして、今や、差異の時代である。差異の需要があるのであり、差異の供給が必要である。そして、差異を積極的に創造することが、差異ビジネスのプラス強度と言えよう。そして、これは、差異である顧客が望んでいることである。差異と差異との創造的展開がいわば有効需要である。だから、フジVSライブドアの戦いは、経済哲学的には、勝負が決しているのである。壇ノ浦の戦いである。