特異性=普遍性ということについて:多数の特異的普遍者

特異性=普遍性ということについて

特異性とは何か。以前にも述べたが、それは、イデア界の不連続的差異の反映だと考えられる。というか、不連続的差異が特異点であり、特異性である。そして、この特異点=特異的差異が、虚度によって回転して、メディア界の構成態となる。ここでは、複数の特異性が疑似連結する。特異性が連続体に見えるのである。すなわち、特異性が差異となり、差異=微分と見えるのである。そして、微分積分されて、現象物となる。たとえば、素粒子とは、このような差異=微分と見ていいだろう。そして、特異性=不連続的差異とは、カントの物自体に相当するものと考えていいだろう。
 そこで、問題は、この特異性の意味である。特異性とはそれ自体で存するものである。それ自体で、独立するものであり、他者の存在を本来必要としない。それは、普遍性というよりは、絶対性であろう。特異的絶対性がある。しかし、それは、他者に対してそうであるというのではなくて、それ自体で絶対であるということであろう。つまり、本来他者に対して、境界によって併存・共立する存在にすぎない。ここでは、特異性が共存している。この特異性共存は、虚度によって成立していると考えられる。そして、この虚度によって、特異性は回転して、連続性を帯びるのである。しかし、それは、擬制の連続性である。これは、特異性=差異=微分という擬制を意味するのである。これは、ベルクソンが考えた差異であり、ドゥルーズが取り入れたものである。しかし、これは、連続的同一性を帰結する。ハイデガー存在論的差異とは、やはり、ここに近いと考えられる。
 さて、では、特異性と普遍性とはどう関係するのであろうか。あるいは、絶対性と普遍性とは。先にわたしは、特異的普遍と言った。それは、特異性、特異的差異自体において類性を帯びているということだろう。特異性であり、類であり、普遍ということである。すなわち、存在と概念とが一致したものである。私はまた、先に、知即存在としての差異ということを述べたが、この存在即概念としての特異的普遍がこれとつながるだろう。では、絶対性との関係はというと、普遍性とは正に絶対性であろう。
 ということで、所期の問題を検討したことになる。ここで、アダム・カドモン/コギトの問題に触れると、原人の複数の特異的普遍性を虚度ないし強度的に連結するのがコギトという「特異的差異」である。しかし、コギトは、複数の特異性を交通・連結する「理性」・ロゴス(ディア・ポリロゴス)としての「特異的差異」性と見るべきであろう。それは、正しくはそのような複数の特異性を交差交通連結させる虚度ないし強度である。そして、特異的普遍であるアダム・カドモン/コギトが現象化したのが人間個体である。しかし、通常、連続的同一性の垢、ヴェール、目隠しによって、それを忘却しているのである。しかしながら、無意識として、アダム・カドモン/コギトは作用していると言えよう。しかし、通常は自我という悪魔に阻害されつつではあるが。いわば宇宙身体、正しく言えば、太陽系的身体であるアダム・カドモン/コギトを無意識として内在・内包している人間個体の活動とはいかなる意味をもつのだろうか。人間の労働とは。生産とは。消費とは。学びとは。人生とは。社会とは。自然とは。等々。そう、D.H.ロレンスが最晩年説いたように、コスモスと一体として人間は生きているのだ。太陽系の星辰とともに、また、遠くは銀河系、大宇宙とともに生きているのだ。しかし、人間は、悪魔的自我に囚われて、自己を忘却して、互いにいたずらに争って生きているのだ。とまれ、自我を脱却して、コギトに生きるとき、人間個体は特異的差異となり、アダム・カドモン/コギトへ近づくのだ。それを、過去、イナンナ、イシュタル、イシス、ヤハウェ、キリスト、アッラーブッダ、空、八百万の神々、ケツァル・コアトル、グレート・スピリット等々と呼んできたのだ。また、イデアグノーシス、ロゴス等もそうである。コギトに生きるとき、アダム・カドモン/コギト、特異的普遍者に近づく。結局、特異普遍者が個体の本体である。死後はそれへと転化するだろう。コギトによって刻まれた経験や智はアダム・カドモン/コギトという身体/精神に記録されているのだろう。(神秘学者が、アカシャ年代記と呼ぶものは、この記録の歪曲された贋物だろう。)そう、思うに、アダム・カドモン/コギトとは、インターネットのサーバーのように多数の端末からの通信を記録して、各端末すなわち各差異を共存・共立・併存させるものだろう。「わたし」は特異的普遍者であり、他者の「わたし」という特異的普遍者と類的に一致しながらも、不連続的差異なのである。普遍的差異が多数存するのである。