7特異差異/虚度=アダム・カドモン/コギト論

5特異性(不連続的)差異/虚度=アダム・カドモン/コギトに関して

結局、問題は、特異性と普遍性と類概念に関することである。コギトという特異性差異であるが、これは、私見では、単にメディア界だけではなくて、イデア界に通じているのである。すなわち、イデア界の特異性差異が、現象界においても作用しているのである。しかし、混乱をさけるために用語に慎重ではなくてはならない。コギトという特異性差異という表現は不正確である。コギトという特異性差異/虚度というべきだ。簡略化すれば、特異性差異虚度ないし特差異虚度である。さらに簡略化して、特差虚度ないし特異虚度である。だから、コギトという特異虚度、特異虚度としてのコギトである。結局、これは何かである。確かに、「わたし」はこのコギトである。そして、他者の「わたし」もこのコギトである。特異虚度である、両者。ということは、特異虚度において、「わたし」は共通普遍であるということだろう。これはまた差異共存性ということである。つまり、ここでは、実念論唯名論の論争が解決されているのである。特異虚度とは、唯名論的であり、同時に実念論的である。というか両者の「止揚」である。「弁証法」的統一である。両者の包摂概念である。両者それぞれより高度・高位のものである。なぜなら、実念論とは、超越論的形式、一般的形式論であるからである。いわばヘーゲルの精神である。また、唯名論とは、個物・個体の思想であり、それは、結局、一般的個体形式に入れられた特異性であり、特異性そのものではないからである。
 ということで、特異虚度の普遍性が理解される。ここの論理は不思議な論理で、特異性、不連続的差異でありながら、普遍的であるということである。だから、多元的普遍性があるのではあるが、それは、結局一つの普遍性である。多元=一元論理である。つまり、即非の論理である。「わたし」と他者を特異性で異なりながら、同時に、一致するという論理である。これは、特異性・不連続的差異性同一性論理だろう。連続的同一性論理とは全く異質な論理である。いわば超論理である。超論理学である。特異性論理学である。それに対して、一般性論理学が、通常ある。(おそらく、超論理学は、量子論に使用できるだろう。)
 以上のように考えると、5特異虚度=アダム・カドモン/コギト論は成立するようだ。すなわち、個人はおのおのアダム・カドモン/コギトという特異・普遍性である。そして、この限りの「民主主義」が成立する。特異普遍民主主義。(そして、特異普遍的資本主義も成立するはずだ。これまで、差異資本主義ないし連差異資本経済と呼んでいる。)
 このように考えると、特異差異と特異差異との交通はどうなるのだろうか。それは、当然、対話という形式をもつだろう。ディアレクティケーである。対話ロゴスである。ディアロゴスである。これを否定するのが独断論であり、それは、権力主義であり、連続的同一性から発生するものであり、自我主義である。これは、全体主義的である。管理主義である。近代主義、近代資本主義である。(そして、今やこれが解体しつつあるのだ。)
 さて、特異普遍主義が成立するならば、死後、特異性差異性、コギトはどうなるのか。それは、イデア界の特異虚度に帰還することであるが、それは何を意味するのか。アダム・カドモン/コギトに還元することであるが、それはどういうことを意味するのか。それは、死んだ他者との共立であろう。特異普遍性において一致するのである。しかし、現象界での経験・体験・知はどうなるのか。それは、差異/強度的展開であった。また、知とは何か。それは、理性である。知性だけではない。それを包摂したものだ。あるいは、超理性だろう。それは、差異強度の明晰化である。では、そのことは、イデア界にとり何を意味するのか。それは、特異差異性の深化展開であり、イデア界の進展であろう。つまり、イデア界をさらに叡知化することだろう。イデア界だけでは、即自的であり、閉塞しているのだ。これは、現象化することで、特異性のさらなる展開をなして、イデア界をより多様に精緻に展開すると思う。ただし、このために、悪化がともなうのであり、これを超克して、イデア界は高進するのであろう。アダム・カドモン/コギト的「占星学」的イデア界はらせん高進すると言えよう。
 以上基礎を確認して、数の問題を確認しよう。いわゆる数秘学の問題であるが、ここにおいては、5と10、6と7、12と22等の数の意味である。5は5「惑星」ないし五行である(火水金木土)。これは問題ない。10が問題である。これを、5×2(極性)=10とするのか、それとも、10「星辰」とするのかである。あるいは、両者一致するのかである。カバラを参考にすると、それは、三つの柱をもつ。それは、5の極性化とみることができなくもない。5特異虚度の、プラスとマイナスの極性分化としての10(セフィロート)である(もっとも、ぴったりとは合致はしないが、基本的思想がここでは大事である)。この考えは、極性と10「星辰」が一致するという方向である。ここでは、この合致するアイデアを受け入れて、検討を進めよう。では、タロットの大アルカナの22はどこから生まれるのか。それは、10という1サイクルを示したものではないか。すなわち、プラス極性化においては、+5が前面にあり、−5が裏面にある。つまり、−5が潜在している。逆に、マイナス極性化においては、−5が前面にあり、+5が裏面にあるということになる。裏面とは、いわば「空」である。これで、20の「セフィロート」(「星辰」)が形成される。では、残りの2はどうなるのだろうか。それは、直感では、コギトであある。現象界での往路のコギトが1であり、復路のコギトが1である。これで、22となった。そして、愚者・フールのゼロを加えて、23にすれば、大アルカナは成立する【ゼロとは、この場合、数字のゼロ、無ではなくて、「空」(くう)にとるべきだろう。本来、叡智(ソフィア)が潜在しているのに、それが覆面されて、「想起」できない無明・無知の状態になっているということだと考えられる。】
 ということで、カバラ、タロット、占星学を不連続化することができた。つまり、特異化、コギト化できたということであり、それらの神秘学の解体である。ポスト神秘学、脱神秘学、ポスト・オカルティズム、脱オカルティズムである。結局、数秘学的に言うと、5・10の数のグループと12・30の数のグループがあるのではないだろうか。しかし、ペンタグラム論から見ると、360度÷5=72度 そして、72度×360度=25920(プラトン年数)となる。しかし、360がどこから来たのかと言えば、一ヶ月約30日を12サイクルさせたことから発している。つまり、月、月齢、陰暦が基本である。すると、5と10のグループは、おそらく太陽のグループであり、12と30は月のグループである。日月の連結である。だから、5差異では足りないだろう。5+1の差異、6差異でなければならない。そして、これに地星ガイアを入れないといけない。ならば、7差異である。結局、7特異差異/虚度(7「星辰」/虚度)のイデアが太陽系イデアであり、そのようなものとしてイデア界に存していると言えよう。その他、銀河系や大宇宙と多様な特異差異/虚度が存すると考えられる。結局、簡潔に言えば、不連続的差異・7元論である。太陽系イデア・ソフィア・ロゴスとは、7で象徴されるのであろう。運命の7である。星辰5と地星1と月1である。サロメの7枚のベール。イナンナ/イシュタルが越す冥界への7つの門。これは、本体・イデア界への数字でもある。七福神竹林の七賢者。虹の七色。七味唐芥子。七色変化。七色仮面。なな? しち? ナー? これは,「イナンナ」の「なな」では?