自我と精神の病気:自我中心主義は自己に何をもたらすのか

特異的差異連結態である個体は、コギトではなく、自我中心主義となると自己にどういう影響を与えるのか。ゆらぎ=「魂」=共感性を否定掩蔽した反動的連続的同一性であるが自我中心主義=権力的個体は、当然他者に暴力的であるが、自己自身にどういう影響をもたらすのか。先にも言及したが、それは、狂気をもたらすであろう。
 細かく見よう。自我中心主義は、マイナス強度であり、メディア界のゆらぎを否定して、ゆらぎのもつ共感性を排出隠蔽(排隠?)する。そう、排出隠蔽とは、メディア界を自我において内部無意識化することである。否定してはいても、メディア界の存在はあるのである。ゆらぎはあるのである。すると、そこには、差異のプラス強度があるのであり、それはいわば不連続的多元性をもっているだろう。それは活動力をもつのであり、無意識において自我を駆動するのである。明らかに二重人格や多重人格となるだろう。あるいは、首尾一貫しない無責任な人格となろう。メディア界を排出隠蔽して無意識にするのは、そのような分裂・異常・狂気の意味をもつ。自我としては意識があっても、メディア界の意識がないために、メディア界が自己運動するのである。簡単にいえば、ゆらぐのである。論理性が欠落するのである。メディア界的不連続的多元性が、自我意識を支配してしまうのである。主体として合理的に首尾一貫すべきところを、不合理な不整合な不連続的な多元性が現れてしまうのである。主体の分裂状態である。不定な多重人格となるのである。それは、また、無意識のゆらぎといわば癒着しているので、ゆらぎを意識化する他者に反感を覚えるのである。つまり、自我中心主義の自己に対して、そのような他者は、圧力をかけるからである。つまり、いわば理性の圧力を自我中心主義の自己にかけるである。その放縦な傲慢尊大な自我に対して、理性の圧力を、理性の強度、そう理性のプラス強度をもたらし、自我のマイナス強度を解消して、自我同一性を解体しようとするのである。自我は無意識的に反感し、嫌悪し、憎悪し、侮蔑・軽蔑・侮辱するルサンチマンの状態となるのである。
 このように分析して、所期の問題に入ると、それは、メディア界を無意識のままで、陶冶しないのである。そして、プラス強度が年をとるとともに強化されるのであるから、それに対しての意識・認識・自覚がないと、無意識のプラス強度が自我を占有するようになるだろう。そして、そのプラス強度は、能動性であるから、自我の反動暴力性と結びついて、暴力衝動的な多重人格的人間破壊をもたらすだろう。メディア界の逆襲である。