超越性と超越神について:不連続的差異論から脱構築する

超越性と超越神について


マイナス強度は、プラス強度、肯定能動活動的強度の否定反動として存するもので、連続的同一性、父権制を形成する。ここで、問題は、現象界を形成するものは何かである。プラス強度とは、いわばコーラに近いものだろう。それは、積極的に形成生産するものである。だから、現象界を形成するのはプラス強度と言えよう。しかるに、否定反動として、マイナス強度が反作用する。これは、不連続性を押圧掩蔽して、連続的同一性の基に現象界を位階・二元論化するものである。これは、カントの超越論的形式に帰結する。すなわち、言語分節を行い、それに基づいて、現象界を分節化するのである。これは、現象界の構造化と言えよう。レヴィ=ストロースが説いたように神話とは最初の構造主義である。そして、これが、西欧経済文化において、超越論的形式=近代合理自我主義と帰結したのである。(精神分析は正にこの正嫡である。もっとも、近代西欧においては、他の経済文化よりも主客の分離が徹底していた。この理由は、西欧言語分節の主客分離性に求めるのがとりあえずは適切だろう。これについては後で論じよう。)とまれ、この連続的同一性による言語分節化以前は、イメージによるメディア界の表現ないし表象がなされたと言えよう。そう、美術や音楽(参照:ニーチェの『悲劇の誕生』:ディオニュソスとアポロ)が、言語分節に先んじていたとは周知である。視聴覚による表現・表象が、メディア界、すなわち、プラス強度によって現象界を把捉していたと考えられる。それは、多神教母権制、女神の経済文化である。
 さて、そこで本題である超越性あるいは超越神について検討しよう。初めに超越性について述べよう。これは、不連続的差異論の三界性を考慮すれば、簡単に答が出る。イデア界は虚度をもち、メディア界においては強度となる。しかし、メディア界からは、イデア界は超越した次元にあるのである。だから、強度は超越した「力」として出現するのである。これで、超越性の説明は済んだ。では、超越神であるが、これは簡単な応用問題である。すなわち、連続的同一性化というマイナス強度は、ゆらぎないし差異性への反動とは言え、それもまたイデア界の虚度から発しているのであるから、当然、超越性を帯びるのである。連続的同一性の超越性が超越神である。そして、これも当然に精神分析超自我に相当するものである。(考えてみれば、精神分析論とは、連続的同一性、マイナス強度である西欧経済文化ないし近代西欧経済文化の心理学化なのである。)では、なぜ、超越神なり超自我は道徳性を帯びるのかである。(これもニーチェが問題にして、炯眼をもって洞察したことである。『善悪の彼岸』)それは、女神殺し、龍退治等の父権神話と関係する。構造主義と関係する。フロイトは集団による王殺しに言及していた。(ここで王とは女神、メディア界と考えるべきである。)ニーチェは良心、疚しさ(やましさ)について言及していた。それは、女神、メディア界の存在を否定無化的に追いやって、連続的同一性化することである。ここでやましさ、良心が生じるのである。自己に存するものを否定することである。いわば自己殺しなのである。そして、連続的同一化の超越性・超越神は、それをいわば償うようにして、自己を律法化するのである(モーゼの戒律)。つまり、否定的な反動的なものとしての超越神・超自我の道徳があるのである。禁止・禁忌である。汝すべからず。これが権力の起源である。そして自己中心的に、独善独断的に、自己判断を暴力的に押し付ける権力をもつのである(ブッシュ&アメリカ)。また、この連続的同一化とは、自我欲望であるから、他者を連続的自己同一化しようとして、他者の存在を横取りするのである(イラク戦争)。だから、超越神・超自我の道徳とは、偽善的でもあるのである。自我欲望を、超越神・超自我・道徳で偽装して(イデオロギー化)、大義名分を形成して、暴力的に実現するのである。これが西欧の国家ないし国家一般の原理、連続的同一化の原理である。これは、また狂気である。パラノイア統合失調症である。これについては別に論じたい。