メディア界の下克上:自我と差異:連続同一性と不連続的差異性

「メディア界の下克上:現代、メディア界で闘争が行われている」

メディア界は、強度、マイナス強度(連続的強度)とプラス強度(差異的強度)との相克の空間であり、今日、フジとライブドアで決戦が行なわれている。また、日々、さまざまな領域で、この闘争が行なわれいている。そして、今、脱近代ないし近代解体(ディーモダンと呼びたい)の状況で、自我と差異、連続同一性と不連続的差異、権力・戦争と共生・平和等の相克が起きている。しかし、後者に分がある。現代は、いわば相転移期である。今の季節と同じで三寒四温である。冬である前者と春である後者との闘いである。冬の日枝と春のホリエモンの闘いである。これは、すでに勝敗が決まっている。今やメディア界の強度はプラス強度へと転換しているからだ。差異の連結。連差異経済文化へと移行しているのである。これは、どの分野、領域でも同じである。旧態の連続的同一性による位階構造体と新進の不連続的差異の「アレンジメント」との闘争である。


p.s. 「水瓶座宝瓶宮」の「水」とは、プラス強度のことであろう。これは、マイナス強度である自我・連続的同一性を解体する強度であり、メディア界において、差異、不連続的差異が賦活されるのである。いわば、プラスのエネルゲイアが作用して、マイナスのエネルゲイア(権力・暴力)を解体するのである。水瓶座は友愛・博愛を意味するとのことだが、確かに、プラス強度は差異主義だから、差異共存共生平和を指向するので、そういう面はあるだろう。



『自我の反動暴力性:ゆらぎへの反動:「メディア界」の闘争』


今日、近代的自我と脱近代的自我である差異との闘い行われている。経済では、フジvsライブドアである。ここでは、不連続的差異論から、前者の連続同一性・反動暴力性を再考してみる。
 先の検討から、前者が、マイナス強度によって形成されることを述べた。それは、メディア界においてゆらぎを否定して連続同一性を肯定する方向である。この否定が反動暴力性である。そして、連続的同一性とは、複数の不連続的差異を排して、単数の連続的同一性に同化するのである。全体は一つとなる。原全体主義的方向である。これは、一神教的指向と言っていい。ここには、自己と他者との連続的同一化がある。そして、他者がゆらぎをもつとき、それは、精神空間を通じて、自我は抑えているゆらぎを刺激されて反感をもつのである。すなわち、ゆらぎの強度(これはプラス強度)が伝達されて、自我は反感・ルサンチマンをもち、そのゆらぎをもつ他者に攻撃的となるのである。もう少し丁寧に見よう。
 前にも指摘したが、自我はゆらぎを否定して無化しようとする。しかし、ゆらぎとは、根源的なもの、つまり、イデア界の不連続的差異によるものであるから、無くすことは不可能である。だから、自我においてゆらぎ・差異が否定的に潜在しているのである。マイナス強度とプラス強度が二律背反しているのである。そう、メディア界には二律背反ないし矛盾律の論理が存している。あるいは、二項対立の論理である。この二項対立論理によって、ゆらぎは、自我に否定される。しかし、この否定は無化ではなくて、隠蔽化である。ゆらぎを追放して、いわば裏面に、「無意識」に追いやっているのである。ゆらぎの放逐である。だから、潜在意識として、ゆらぎが自我の精神に存しているのであり、つねに放逐の圧力がかけられている。このマイナス強度の反動暴力性が自我に発動する。だからこそ、ゆらぎをもつ他者が出現すると、ゆらぎは、精神空間、精神公共空間を介して、自我に伝達される(この伝達のあり方は、後で検討。波動伝達と呼びたい感じがある)。自我は、自我の精神において出現したゆらぎに反感をもち、そのゆらぎをもつ他者へのルサンチマンが喚起する。反動暴力衝動が生まれのであり、他者を自我の支配の下に置こうとするのである。覇権・権力・支配である。父権暴力である。これで、この問題は解決したとしよう。
 次に、精神公共空間において、ゆらぎが伝達されるが、どのように伝達されるのか考えてみたい。初めに、精神公共空間について分析しないといけない。私は先に、ゆらぎが「たましい」や共感性等に当たると言った。あるいは、差異/プラス強度が「たましい」や共感性である。精神のこの側面において、差異である個体の共存が可能になるが、この差異共存の回路は通常閉ざされている。自我が支配的である。結局、精神公共空間とは、メディア界のことであり、これは差異/強度の領域であり、「現実」的である。つまり、強度エネルギーのもつ現実世界なのである(現象界のエネルギーは連続化された物質エネルギーである。これをデュナミスと呼べるかもしれない。後で、命名を考えたい)。つまり、精神公共空間とは、差異/±強度の世界であり、「現実」的である。ここで伝達されるのは、差異/±強度である。思うに、これは波動的と言えるかもしれないが、しかし、現象界的な意味で取っては間違いだろう。これは、無限速度である。つまり、イデア界的なのである。イデア界の虚のエネルギーが本体であるからだ(差異境界強度と呼べるかもしれないが、思うに、原強度ないし虚強度と呼ぶのが今は妥当かと思う)。すなわち、原強度・虚強度/差異強度がここでは無限速度で伝達されるのである(思うに、直感、直観、勘、霊感等はここによるのだろう。また、悪賢い悪人、官僚や権力者は、一種この能力をもっていて、自我のために、私利私欲のために、利用するのである。では、なぜ、この能力が、悪へと利用されるかと言えば、それは、この能力をいわば善化する「教養」に欠けているのである。あるいは、出会いと言ってもいい。天使的能力をもっていながら、それを展開できずに、自我という悪魔が主体なのである。)。
 では、次に、命名を考えたい。イデア界の差異/境界とは、虚強度、原強度であるが、強度はエネルゲイアと呼んでもいいだろう。ならば、虚ネルゲイア、原エネルゲイアである。そして、メディア界の差異強度は、差異エネルゲイア、あるいは、メディア・エネルゲイアである。そして、現象界における時空間のエネルギーは現象力度、現象デュナミスと言えよう。簡潔化するなら、イデア界の虚度、メディア界の強度、現象界の力度であろう。そして、思うに、アリストテレスエネルゲイアとは、虚度と強度を表現していて、デュナミス、エンテレケイアとは、力度ではないだろうか。これについては後で検討したい。


「自我合理主義という病気、また宗教という病気:不連続的差異論とエネルゲイア


コギトにおけるゆらぎの振れ方の二つである。どちらも、自我主義である。前者はゆらぎを知性主義へと反動同化させる。つまり、連続的同一化。後者は、ゆらぎを積極的に肯定できずに、すなわち、差異の特異性を肯定できずに、その代替物としての神を求めるのである。神と連続化してしまうのである。不連続的差異論から見ると、「神」は確かに存するが、それは、不連続な差異・イデアである。また、その境界の虚のエネルゲイアである。ついでに、東方キリスト教であるが、つまり、ギリシア正教であるが、それは、イデア・ソフィア・グノーシスの伝統を継承していた。また、そこにエネルゲイアの思想も入っている。神のエネルゲイアという。これは、差異と差異との強度のことと考えられる。そして、神とは、イデア・差異である。すなわち、イデア界が神なのである。不連続的差異のイデア界が神である。そして、聖霊とは、メディア界のことだろう。以下のnovalis666氏の考察から考えると、不連続的差異論のイデア論エネルゲイア論はむすびつくのではないだろうか。なぜなら、前者は、差異と差異の境界を発見して、虚の強度を見出しているからだ。アリストテレスエネルゲイアは、差異/境界の虚の強度ないし虚のエネルギーのことではないだろうか。あとで、くわしく検討したい。


p.s. もし、そうならば、不連続的差異論は、プラトンニーチェドゥルーズだけでなく、アリストテレスも取り入れていることになろう。プラトンとアリステレスの対立も止揚したと言えよう。


novalis666
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