連続的同一性のエネルギーとは何か:虚の時間・エネルギー

連続的同一性のエネルギーとは何か


イデア界の境界の「力」を虚のエネルギー、虚時間とした。そして、メディア界の順列エネルギーとは、虚のエネルギーの消費であり、それは、エネルギーの保存則から、順列エネルギーを解体する負のエネルギーが作用する。思うに、イデア界のiがi化されて、メディア界となる。i×i=−1である。ならば、順列エネルギーとは、−なのである。そして、そして、当然+化が必要である。それは、−1×i×i=1の出来事が必要ではないか。つまり、iiii=iの4乗=+1である。270度回転である。メディア界から見れば、180度回転である。つまり、この場合、マイナスとプラスの180度回転ないし関係があるということだろう。とまれ、半回転して、イデア界に帰還するということだろう。これが、生死の理論ではないか。生(マイナス)から半回転して死(プラス)となる。しかし、これは、虚への回帰である。しかし、これでは、初めの虚、iにもどらない。いや、こういうことだろう。初めのiとは実は、1+ゼロiであり、これが90度回転して、0+iとなるのではないか。ここがイデア界とその縁のメディア界だろう。そして、この縁から270度回転して、元の1+ゼロiに戻ると考えられるだろう。すると、メディア界から90度回転で、現象界−1が生起する。そして、これを半回転(180度回転)して、元のイデア界(1+ゼロi)にもどるということになるだろう。
 では所期の問題にもどると、連続的同一性のエネルギーとは、−エネルギーである。そして、180度回転の+となってイデア界にもどる。これは何か。現象界のエネルギーとはマイナス・エネルギーということである。そして、それは相補的にプラス・エネルギーをもつ。それが「死の欲動」であろう。これは、メディア界を通して、ゆらぎを介してである。(思うに、これが人間が年を取ると宗教的になるという意味ではないか。)そう、差異の境界は、虚のエネルギーをもつのだから、それは、回転するのだ。らせん回転である。結局、連続的同一性のエネルギーとは、マイナス・エネルギーということで、反動と言えよう。そして、ここからのイデア界への回帰が、能動だろう。前者は暴力であり、後者は差異共生・共存である平和である。前者が父権であり、後者が母権となろう。もっとも新母権であるが。ということで、この問題を終えたとしよう。
 ここで、ついでに、連続的同一性のもつ「欲望の模倣」、「横取り」について考えよう。これは、ルネ・ジラールの思想である。これはすでに触れたことであるが、結局、連続的同一性とは、ゆらぎを掩蔽・隠蔽したものである。それを否定してはいるが、無化できていないのである。だから、ゆらぎの対象を見ると取り込もうとして、模倣、横取りすると言えよう。これは、自動的な反応だろう。つまり、マイナス・エネルギーの必然の反応である。しかし、虚のエネルギーの回転は持続するのだから、プラスへと転換されるはずである。しかるに反動性が固着すると、ますます反動化するだろう。これはどういうことだろうか。内在しているゆらぎをかたくなに抑えているのである。つまり、パラノイア的精神病だろう。では、何故そうなるのか。私の直感では不誠実さ、欺瞞がある。では、不誠実さ、欺瞞とは何か。それは偽物と言ってもいいのであるが。思うに、それは、マインドコントロール状態であり、また智が与えられていない状態なのだ。無明である。智慧、叡智の喪失である。ソフィアの喪失である。ソフィア・グノーシスイデア・ロゴスの喪失である。これにより、必然的に成長すべき、イデア界へのプラス・エネルギーが阻害されているのだ。末法である。これで、この問題は済んだと言えよう。
 また、付加したいのであるが、マイナス・エネルギーの反動とプラス・エネルギーの能動であるが、スピノザが『エチカ』で述べている喜びによる能動的観念とは、このプラス・エネルギーの方向であり、イデア界の智の方向と言えよう。スピノザの神とは、イデアを指している。しかし、その一元論を外して、イデアを不連続化する必要がある。そう、スピノザ哲学は、カント哲学同様、プラトン哲学を指向しているのだ。ついでに言えば、このプラトンを真に変革したのは、ニーチェである。ニーチェ哲学とは何か。それは、イデアの、つまり、差異と差異との境界である強度を提示したことだろう。プラトンは差異を提示したのだ。しかし、ニーチェは身をもって、差異と差異との境界の強度、虚のエネルギーを提示したのだ。ここで、イデア論は、創造的変容をしたのだ。そして、これを、ドゥルーズが集大成するはずであったが、後一歩で混乱してしまったのである。そして、不連続的差異論がこれを実現したのである。