不連続的差異論関連

四元数、回転」

http://www12.plala.or.jp/ksp/mathInPhys/quaternion/
http://www.minc.ne.jp/~ryokan/vb5/vb508.html
http://noos.ne.jp/forum3/data/noos/log/tree_147.htm
http://toretate.fc2web.com/bgmath/2001/home223.html

なお、以下はODA ウォッチャーズ氏の「境界の存在形式についての序論」である。
http://kaisetsu.ameblo.jp/entry-1b7b3f9310cf1dedfb1d6cf47d729c2c.html


「子供の差異としての自由な成長を抑えるのはなにか」

今は一言。個における差異ないし特異性とは、内在的倫理をもち、また内在的自由な存在である。ここには、新保守主義の道徳は不要である。支配者が道徳を唱えるのである。


「差異と差異との連続(擬制)化のあり方(2004年12月21日)」

[叡智学] 差異と差異との連続(擬制)化のあり方:試論1

 不連続差異(不連続的差異)の連続化のあり方に関して検討すると、差異1と差異2の二つの差異の関係を考察すれば済むであろう。つまり、三つ以上の場合は、二つの差異の関係から演繹ないし敷延できるだろう。そうすると、差異1に関しては、境界がゼロになるときは、90度と270度の時であり、差異2も同様である。両者の順列を考えると、

差異1・・・90°、270°
差異2・・・90°、270°

1.差異1・90°・・・・差異2・90°
2.差異1・270°・・・差異2・90°
3.差異1・90°・・・・差異2・270°
4.差異1・270°・・・差異2・270°

というように、四種類の差異の連続化のあり方が生じるだろう。思うに、現象界において四元論がある種基本法則であるのは、ここと関係するのかもしれない。東西南北、地水火風(四大)、四つの力、四つの塩基、四つの血液型、時空四次元、四季、等。(占いとは、思うに、この差異の連続体の構造に拠るのであろう。しかし、この連続体とは擬制であり、常に近似値でしかない。つまり、かなりの誤差があるということである。だから、占いは科学にはならないのである。占いではなくて、差異連続体の構造学ないし構成学が成り立つのではないだろうか。あるいは、差異連続体の形相学である。これが、原型論、構造論、「イデア」論、先験的形式論等と等価であろう。)
 問題は、この四元論が、絶対的なものではなくて、擬制的であるということである。根源・本源は、イデア界である。そして、不連続的差異(不連続差異)の共存の強度関係が基盤である。つまり、イデア界での差異の強度回転があり、この回転運動により、メディア界がゆらぐのであろう。このゆらぎは、現象界からはほとんど察知されないだろう。しかし、これが、現象界の運動の根源であろう。強度からエネルギーへの変換が、この差異連続体(擬制)に生じると言えよう。
 さて、思うに、霊的存在と想定されたもの、たとえば、神々、仏、菩薩、霊魂、精霊、妖精、天使、悪魔、幽霊等は、実は差異のことではないだろうか。というか、不連続的差異論(不連続差異論)からそのように考えられるということである。民俗学もこの観点から見るべきだろう。河童とは、差異だろう。水や川の差異。そして、折口信夫のマレビトとは、やはり、差異強度的存在だろう。というか、人のエッセンス・差異・イデアだろう。イデア界のヒトのエッセンス・差異・イデアがいわば啓示されるのだろう。「黙示録」だ。つまり、イデア界的ヒトである。

p.s. 当然ながら、微分とは差異連続体の極限計算であるが、擬制であり、近似値に過ぎない。根源は、差異という特異点である。特異点特異点との回転関係がメディア界を形成し、そこから現象界が発現するということであろう。


ガウス平面とイデア界(2004年12月16日)」

ガウス平面とイデア界 3

これもまったくの思いつきであるが、差異(α、0i)が90度回転して、メディア差異(0, i )となり、それが、今度は、z軸へ90度回転して、現象差異(0, 0, i)としよう。ならば、これは、差異(α、0i)のz軸への90度回転と等しいだろう。思うに、これは虚次元y軸が見えないのである。つまり、メディア界が透明になっているのである。つまり、ゼロ度である。差異=微分とはこのようなゼロ度の発想ではなかったか。思うに、x軸の不連続体を、z軸において連続体と見るのだろう。なぜ、z軸において、連続体と見るのか。これは、y軸(i軸)を通しているからではないか。つまり、y軸とは、重なりの軸であろう。イデア界の差異が重なり、それが、z軸における連続体となるのではないだろうか。

p.s. これはかなり強弁である。さらに検討しよう。

p.p.s. 問題は、z軸もi次元になることだ。y軸からz軸へ90度回転は、では、何だろうか。そう、i×i=−1ではないか。つまり、z軸での差異は(0,0,−1)となるのではないか。ここで、整理すると、まず、x軸、イデア界の差異α(1,0i)がある。そして、y軸へ90度回転で、メディア界の差異α’(0,i)となる。そして、さらにz軸へ90度回転して、現象界の差異α”(0,0,−1)となる。つまり、実数になるのである。それもマイナスとしてである。ということは、イデア界の1が、現象界ではマイナスとなるということではないか。つまり、正負逆転するのだ。これはルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』のあべこべの世界と一致するのではないか。つまり、たとえば、+のベクトルが−のベクトルに変換するということではないか。時間ならば、逆転して、未来から過去へと進むのだ。『鏡の国のアリス』で、女王が、先に指から出血した後、指にピンが刺さるように。また、物質、反物質の問題もこれに関係するのではないか。つまり、反物質とは、イデア界の差異である。そして、物質とは、現象界の差異であるとなるのではないか。また、量子とはメディア界の差異ではないか。また、ダークマターとは、イデア界の差異ではないか。つまり、イデア界にはまだ現象化していない差異があるということではないか。では、相対性理論とは何か。それは時空連続体を意味するだろう。E=mcの二乗。つまり、イデア界の差異が強度をもち、それは無限速度であるから、時間=空間である。つまり、相対性理論とはイデア界の差異の強度の現象界的理論ではないか。


[叡智学] ガウス平面とイデア界 2

問題は、ガウス平面の意味である。それをイデア界とするならば、たとえば、α(1、i)が何を意味するかである。図示しよう。


           i軸(y軸)
           |
           |
           i|・・・・・・・α(1,i)
           |       |
           |         |
           |       |
           |       |
           |       |
___________________1________x軸
           |     差異(1,0i)
           |
           |
           |
           |
           |
           |
           |
           |



全くの印象であるが、αとは、差異(1,0i)の90度回転したものを、i軸から見たものではないのか。あとで、検討したい。

「不連続的差異論とベルクソンドゥルーズの差異(2004年12月14日)」

不連続的差異論とベルクソンドゥルーズの差異

[叡智学] 不連続差異論ベルクソンドゥルーズ的差異

ベルクソンのいう異質的多様体とは、連続的差異時間である。しかし、不連続的差異論は、90度回転を説き、ガウス平面を考える。i軸上で、差異が連続化するように見えるのである。そして、これが、ベルクソンの異質的多様体であろう。差異=微分の連続体の多様体である。そして、ドゥルーズはこれを採用し、ニーチェの特異性=強度と結びつけようとした。しかし、これは樫村晴香氏が慧眼にも批判したように、折衷である。そして、ODA ウォッチャーズ氏と私は、不連続的差異論を仮説して、ドゥルーズ哲学の矛盾を解決したと言えよう。つまり、イデア界の不連続の差異を肯定して、プラトンに回帰したのである。私見では、ドゥルーズではなくて、フェリックス・ガタリがこの不連続的差異論に近いのである。ドゥルーズガタリを切断して考えたいと思っている。アカデミズムでは、ガタリを排して、ドゥルーズをもちあげているが、それは、ドゥルーズの方が反動性があるからだろう。とまれ、ベルクソンとの比較で、不連続的差異論がより明快になっただろう。


[叡智学] ベルクソンドゥルーズ

次の引用から、ドゥルーズは差異=微分をどうやら樫村氏が述べたようにベルクソンから引き出したように思えた。

「1. 多様体と展開

われわれの議論に入る前に、『試論』においてきわめて重要な概念として登場する「多様体」と「展開」について確認しておきたい。ふたつの多様体と呼ばれるのは、一方は等質的なhomogene境域における相互に外在的な諸項の並置からなる多様体であり、他方は諸項が区別されない連続的継起的な変化であるような「質的差異化の原理(DI 71)」である。後者が異質的heterogene多様体と呼ばれる。これらが、<>、<>について区別されるふたつの多様体であることに注意していただきたい。「区別するという言葉のふたつの可能な意味を、一方は質的で他方は量的な同と他とのあいだの差異についてのふたつの概念を、認めねばならない(強調引用者、DI 90)」のである。<>についての規定に関しては、ここでは、その「判明さ」による規定をあげておこう。

等質性とは、「判明な諸項の並置(DI 95)」からなる「判明な多様体multiplicite distincte (DI 59, 86, 90, 91, 92, 170 etc.)」である。これに対し、異質的多様体における差異とは、「それが一なのか多なのかをも言うことができないようなぐあいに、またそのような見地から検討すればただちにその本性を逸してしまうdenaturer ようなぐあいに、お互いに混じりあっている(DI 102)」、このような仕方での差異であり、「その各瞬間は数的多数性を構成せず(loc.cit.)」、「不分明な形のもとに(loc.cit.)」捉えられる「不分明なindistincte多様体(DI 78, cf.DI 89)」、「錯雑なconfuse多様体(DI 65, 96)」である。これらふたつの多様体はこの意味でそれぞれ本性を異にしており、両者の間には本性の差異があるということができる。

ついで、「展開」という用語に関して触れておく。『試論』においては、展開developper, deployer, deroulerといった語群によって、相互外在化exterioriser・並置化juxtaposer・固定化fixer, solidifier等……一言でいえば、異質的多様体の、等質的多様体への<>が考えられている。念のため述べておけば、この用語法(「展開」)は、ベルクソンのテクストによって十分に支持されるものである(cf. DI 55, 74, 76, 89, 91, 92, 94, 98, 104, 122, 132, 149, 165, etc. )。異質的多様体においては、諸項は相互浸透していて、判明な・数的な複数性を形成しないにもかかわらず、ひとは「時間を空間内に展開する developperという深く根を下した習慣(DI 91)」を有していて、「われわれが質的多様体と呼んだものを、数的多様体の形のもとに、空間内に展開deployer (DI 92)」する傾向のうちにある。結局「あらゆる判明な多様体は空間内に展開されることun deroulement によって得られる(DI 89)」ものにすぎない4。ベルクソンが『試論』において主題化しているのは、ふたつの多様体の間の本性の差異を越境する、この脱本性的な展開(< >)なのである。そして両多様体の<>は、まさにこのように異質的多様体がたやすく展開され・<>を蒙るものであることに存している。 」

以下から
http://www.hum.fukuoka-u.ac.jp/~hiraiya/bergson/bergson1997.html

 ここで、ベルクソンは、等質的多様体と異質的多様体に分けているが、前者は量的で、不連続的であり、後者は異質的であるが、連続的である。そして、前者が空間、後者が時間に当るだろう。そこで、思うに、ドゥルーズは差異を後者から取り出したのである。つまり、連続的異質的多様体から、差異=微分を取り出したのである。樫村晴香氏の推論ないし考察は正鵠を射ていた。結局、ドゥルーズの差異論は樫村晴香氏が説くように、ハイデガーベルクソンの系譜をもつのであり、他面のニーチェの特異性=強度の系譜とは異なるのである。
 さて、不連続的差異論(不連続差異論)は、不連続的異質的多様体を扱うとは言えるだろう。あるいは、異質的不連続多様体である。ベルグソンより、深く、高いのである。やはり、ゼロ度の問題である。境界の問題である。ベルクソンは境界ゼロにしているのだ。不連続的差異論(不連続差異論dd論)は、四分の一回転によるガウス平面の出来事を見ている。i化である。
 
 ところで、x軸とz軸をどうするかの問題がある。こういうことではないか。x軸(実数)において、差異が不連続的に共立する。しかし、90度回転して、y軸(虚軸、i軸)において、それらは、xーz平面では差異は重なるだろう。これが近似的連続化だろうか。これについては別稿で検討しよう。


「90度回転の意味(ODA ウォチャーズ氏のブログから)」

90度回転の意味


プランクの定数= h

qp-pq = i・h/2π ( i = 虚数

 空間が不連続であるために、qp の値と pqの値は、異なる。
 この異なり方の『差』、つまり、『差異』の『差』は、虚数平面では、90度の回転を伴う「i」を伴って、 h/2π の距離を生じる。

(関連ページ)
聖霊の時代、相対性理論量子論、差異革命http://renshi.ameblo.jp/entry-900aaffa9072a4ff2343e3a45b2b6aff.html

不連続的差異論基礎論(草稿)
http://renshi.ameblo.jp/entry-8301186454072f1672090fb63b4848c1.html


以上以下から
http://kaisetsu.ameblo.jp/entry-8bd3b287daa377829b3ea3817872f0b8.html


イデア界、境界、90度回転、連続的見え(異文:December 17, 2004 )」

イデア界、境界、90度回転、連続的見え

差異1/差異2/差異3/・・・/差異n

    図式1 イデア


図式1は、イデア界における不連続的差異の共立状態を境界の/を入れて示したものである。ここで、思いついたことは、差異と差異との境界が90度回転して、正面に向いた状態である。図示しよう。

 
差異1・差異2・差異3・・・差異n
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

       図式2 


イメージとしては、差異1が右回りに90度回転し、差異2が左回りに90度回転する感じである。あるいは、差異それぞれが、右回転した場合、あるいは左回転した場合である。垂直的な境界がこのために、水平的な線分となり、いわば連続化するのだ。では、この連続化とは何を意味するのか。これこそ、ベルクソンドゥルーズの差異=微分ではないか。つまり、差異1と差異2とが、水平線により、連続化されるのだ。つまり、ベルクソンが異質的多様体と言ったものがここにはあるだろう。連続的異質的多様体である。確かに、ここにおいて事実として連続体が生じているだろう。そして、多くの天才たちが、ここをとらえて、差異連続体を構想してきたと言えるだろう。ベンヤミンしかりである。かれはプラトンから出発しながらも、ライプニッツモナド論へ移行した。そして、理念の星座を形成した。星座は明らかに連続体である。ということで、ほとんど多くの天才たちが、図式2の水平線となった境界をベースに思考していると考えられるのである。例外はプラトンであり、ニーチェであり、キルケゴールであり、ガタリである。つまり、ほとんどの場合、イデア界本来の不連続的差異の状態、特異点の状態という本源・根源からでなく、90度回転した水平線の境界から出発しているのだ。そして、ドゥルーズの場合は両者の折衷であり、混乱である。思うに、この90度回転というのは、事実であり、これにより、差異の連続化、差異=微分が生じるのである。ところで、私は原分節化のことを言ったが、おそらく、ここに原分節化の原基があるのではないだろうか。差異の連続体に、原分節化があるのだろう。そして、ここから、言語分節が生まれるのだろう。私は以前、同一化の錯視と言ったが、それは必然的な錯視だろう。なぜなら、差異境界が連続体となるからだ。しかし、実は水平線はゆらいでいるだろう。もともとは、差異は不連続であるのだから。たぶん、死生の問題はここにあるだろう。
 次に、この水平線と原分節について考察しよう。連続的水平線は、差異=微分が成立して、積分されて、物質が生成される。とまれ、この水平線がメディア界であろう。差異の連続体と原分節の関係はどうか。おそらく、これらは等価だろう。たとえば、ベンヤミンが理念の星座と呼んだものは、差異の連続体だろう。そして、これが現象の単位となるのだろう。すなわち、原分節である。以前に、メディア界の二つの極として、イデア極と現象極とをあげた。水平線は、現象極であろう。では、イデア極になるのは何であろう。それは、この差異の連続体の裏面だろう。つまり、内在する不連続的差異だろう。そう、以前、イデア極をプラスとし、現象極をマイナスとしたが、イデア極とは、不連続的差異の集合体として存するだろうし、現象極は、差異の連続体ないし原分節性として存するだろう。また、女性はイデア極側であり、男性は現象極側と述べたが、それも間違いではないだろう。つまり、水平線の現象側とイデア側があるということである。



    [イデア界]:不連続的差異

      
    イデア極(女性):潜在意識:右脳
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<水平線=メディア界>
    現象極(男性) :原分節:左脳


    [現象界]:言語分節

   

      図式3


以上のように確認すると、やはり、これまで、哲学、理論、文化等は、男性が中心であったため、図式3の水平線を含めて、下部中心であったと言えよう。ライプニッツベンヤミンでさえそうである。天才のドゥルーズやロレンスでさえ、水平線の両側をゆらいだと言えよう。水平線の上部は、プラトンニーチェキルケゴールガタリが追究したと言えよう。とりあえず、ここで、この稿を閉じよう。

p.s. カントはどうだろうか。カントも、プラトン側に入れるべきである。なぜなら、理性批判により、水平線=メディア界の上下層を切断したからである。(もっとも、分離のままにとどまったが。)すなわち、先験的形式とは、メディア界を指摘したことになろう。また、物自体や実践理性はイデア界への示唆である。つまり、理論的には後一歩であったが、少なくとも、カントはイデア界/メディア界/現象界の区分をもっていたことになる。近代科学的限定がカントを規定したとは言えるだろう。それからの進展は現象学の発展が必要であったと言えよう。

p.p.s. マルクスはどうだろうか。商品、貨幣、資本の「イデア」を捉えただろうが、それは、ヘーゲル的な「イデア」、つまり、ヘーゲル的観念論である。同一性のイデアである。これは、プラトンイデアを棄却した言語分節的観念である。つまり、反動的概念である。他者を排除する概念である。つまり、水平線=メディア界の下部中心の概念であり、上部を廃棄しているために、反動暴力性をもつ排他的概念である。(イデオロギー的である。)つまり、根井康之氏が述べていたように、ヘーゲル哲学を資本主義に適用したのが、『資本論』である。これは、資本主義の現実分析である。構造分析である。ここからは、反動的な社会変革理論が生まれるだろう。つまり、反動の反動である。有名な「否定の否定」(=弁証法)である。ここでは、マルクスは差異を喪失しているのだ。フォイエルバッハ批判のマルクスは確かに社会的具体的個体を問題にしていたようだ。根井氏によれば、自然と人間との相互形成性を問題にしていた。そう、つまり、初期マルクスには、他者との交流、交通、つまり、差異共存主義があったのだが、それが、ヘーゲル哲学に染まって、弁証法という否定=反動性を強くもってしまったと思う。つまり、ニーチェ的に言えば、マルクス自身ルサンチマンに陥ったと思う。だから、プルードン派、アナキスト派との確執が生じたのだろう。


「差異と差異の境界問題(2004年12月4日)」


水平共感力とは、ODA ウォッチャーズ氏の考えから言えば、半回転、i化であろう。つまり、簡略に図示すれば、垂直強度が強い場合、つまり、不連続的差異として独立して存在している場合は、

 |    |    |    |    |     |
 |    |    |    |    |     |
 |    |    |    |    | ・・・ | 
差異1  差異2  差異3  差異4  差異5   差異n      
垂直強度が強いときは、このように、差異同士は分離している。正に、不連続的差異である(縦線は三本ではなくて、一本として見る)。しかし、水平強度が強いときは、

____ ____ ____ ____ ____・・・ ____
 
差異1  差異2  差異3   差異4  差異5     差異n

となり、連続的に見えるのである。
 あるいは、次のように考えたらどうだろうか。差異1と差異2とが無限遠点で交わるとしよう。つまり、イデア界だから、差異は無限速度で動くのである。そのとき、差異1と差異2とが無限遠点で交わると想定できるのではないか。もっとも、この交点は、擬制である。交わると見えるのである。差異1と差異2との間には隙間があるのである。境界は、差異の強度の「差異」によるのではないか。
 とまれ、以上、二つのあり方を考えた。一つは、水平強度的交通(接触ではないだろう)による差異連結であり、一つは、無限速度による無限遠点での疑似交点である。思うに、ドゥルーズは、二重セリーの共鳴ということで、このような不連続的差異の「連結」を考えていたと思う。しかし、そこに、比例=微分が鎮座しているのだ。共鳴という考え方は、共振であり、そこに同一化があるだろう。しかし、交通や疑似交点には、同一化はない。つまり、あくまで、差異1のまま、差異2を反映するのであり、差異2のまま、差異1を反映するのである。ならば、この不連続的相互反映の媒体は何なのだろうか。あるいは、直截的交通なのか。また、強度とは何かという問題がある。強度は、差異自体にあるのか、差異と差異との間に強度が生じるのか。それとも、両者にあるのか。イデア界自体に強度があるのは当然であるが、おそらく、差異自体に強度があると見ていいのだろう。つまり、垂直/水平強度である。これは、極性的であるが、+−ではなく、「時空間」的強度である。両義的、両極的な強度であり、平面的強度である。そして、スピンを差異に想定できるだろう。垂直強度と水平強度のベクトル的回転である。そして、思うに、これが、現象界の時空間を形成する強度であろう。存在物は、この差異強度回転の連結から生じるのであり、水平化の擬制的連続がいわば生であり、垂直的分離化が死ではないか。これは、生命体に限ったことではなくて、無機物の生成にも関係するのではないか。たとえば、素粒子の生成消滅とか。
 ところで、差異に+−の極性があるとしたらどうだろうか。図示しよう。


 (+)        (+)
  |          |
  |          |
  |          |       (図1)
 (−)        (−)
 差異1        差異2


        ↓

 
(+)ーーー(−)⇔(+)ーーー(−)    (図2)

    差異1       差異2


である。図2において、差異1の右辺の(−)と差異2の左辺の(+)とが「共感」交通をしよう。しかし、これはゼロ度ではない。差異強度1と差異強度2との1/2強度の交通である。ODA ウォッチャーズ氏に倣って、四分の一回転、iの交通と言おうか。ドゥルーズが二重セリーの共鳴と言ったのは、この交通をゼロ度にしているのではないだろうか。差異1と差異2との水平交通をゼロ度にすれば、確かに、差異1と差異2とは共鳴しよう。これでは、連続となり、微分的差異となる。結局、以上の考察から見ると、差異には垂直/水平性と、±の極性性の二つの属性を強度としてもっているということになろう。おそらく、差異と差異との境界交通に、メディア界並びに現象界生成の根源があるのではないだろうか。この点に関しては、稿を改めて検討しよう。


「差異と差異との境界(90度回転論が生まれる直前:2004/11/29)」

「差異と差異との境界について」1

 この問題は、ODA ウォッチャーズ氏が立てたものだが、きわめて重要なので、ここで、考察したい。
 差異自体は、ゼロ度ないしゼロである。このゼロ度の差異と差異とが共立連結しているのだがイデア界であろう。図示すれば、

+1−+1−
−1+−1+
+1−+1−
 ・・・

となろう。
一見、境界はゼロである。しかし、差異は、|1|ないし±1という強度がもっているのだから、おそらく、境界は強度|1|ないし±1をもっているのではないだろうか。しかし、私の直感では、差異と差異との共立共感強度を考えると、差異において共感強度とは、ゼロ度である。問題は、差異1と差異2との共立共感強度の問題であるが、ゼロ度連結ならば、差異1と差異2とは、一種有機体的連結をなし、微分的差異となろう。しかるに、ゼロ度ではなくて、+1−、+2−と考えれば、この共立共感連結とは、ゼロ度連結ではなく、+と−との連結である。すなわち、不連続的差異の連結となる。換言すれば、極限値の問題だろう。limit+1→ゼロとlimit−1→ゼロと、極限値ゼロとの問題だろう。ゼロ度連結とは微分積分である。しかるに、前者の動きは、不連続的だろう。limit±1→ゼロ≠ゼロである。
 結局、私はこれまで、差異と差異との共立共感連結は、ゼロ度と考えていたが、それだと連続論になるだろう。差異と差異との境界は、あくまで、不連続的差異の境界である。ベンヤミンが、モナド論的に、星座という概念を出したが、それは、境界ゼロ度の発想であろう。たとえば、磁石で、N極とS極との共立共感連結があるが、それは、ゼロ度ではないだろう。差異Xではないだろうか。そして、差異強度Xではないか。つまり、差異1とは、差異強度1をもつということではないか。では、差異1と差異2との共立とは何か。差異強度1と差異強度2との共立である。それは、差異1/差異2ではないか。ならば、イデア界において、差異1/差異2/差異3・・・差異Nということになるのではないだろうか。しかし、差異1=+1−、差異2=+2−、・・・差異N=+N−ならばどうだろうか。これは、考えられうることだろう。

+1−
−2+
+3−
・・・
+N−(又は、−N+)

これまで、差異1と差異2との境界をゼロ度と考えてきたが、それは、1/2であろう。つまり、差異1/2であろう。

以下、ODA ウォッチャーズ氏のブログ
http://blog.melma.com/00112192/20041111125701


「差異空間/現象のメディアとしての内的時間(2004年9月27日)」

 O氏は、差異空間/現象のメディアとして内的時間を述べている。これは、私のこれまでの考え方で言えば、共感性(身体的共感性)と重なるだろう。おそらく、この問題には最重要性があるだろう。とりあえず、共感性から考えようか。これは、いわゆる「愛」と関係するだろう。不連続的差異の理論からして、「愛」や共感性はどのような関係があるのか。「愛」は、幻想であろう。それは、本体的には、差異の連結ないし離接である。そして、私の説く共感性もそうであろう。ならば、人間存在とは何であろうかということになるだろう。「愛」や共感性を幻想と言ったが、本体(本源)的には、差異の強度であろう。つまり、それが、現象的には「愛」や共感性として発現しているということである。偽りの連続性(共同性)ではなくて、差異的強度こそ、実体であろう。これは、不連続的強度である。ドゥルーズガタリでは、離接である。これを維持すべきである。そう、簡単に言えば、強度//「愛」・共感性である。そして、これは、O氏的に言えば、強度//光である。そう、光は「愛」である。
(おそらく、「美」である。)
 ここで、O氏の内的時間に関連すると、結局、特異個=単独的時間が、差異空間に通じるということになるのではないだろうか。(私は現象学には詳しくないが、おそらく、現象学はこの点に関係するだろう。)ここでまとめると、光=共感性=内的時間=強度ということになるかもしれない。でも、ここで光とあるが、私見では、光は「光」である。つまり、原光/光としての光である。
つまり、現象は二重存在なのだ。無限速度/光速であるし、強度/愛、等々である。これが、ドゥルーズガタリの哲学の謂であろう。現象側から見ると、連続性を形成しやすい。しかしながら、本源の差異空間を直観・直感できるのである。これは何故か。それは、現象自体に特異的差異性が現象しているからではないだろうか。個とは、特異的差異性と言える。つまり、やはり、本源/現象のパラレルがある。だから、直感・直観的に、本源・差異空間を仮説できるのであろう。いや、もっと的確に言うべきだ。実は、現象こそ、特異的差異性をもつからこそ、直観の連続性を修正して、不連続的差異的本源界を想定できるのではないだろうか。ならば、特異的差異性/連続性の矛盾が強度の存在の証であろう。おそらく、差異/連続性、つまり、離接性とは、存在/現象のベースであり、これが、人間存在の核心があるだろう。私が言った共感性とは、実は、


p.s. これは途切れたままになった原稿である。O氏とは、ODA ウォッチャーズ氏のことである。


「差異と強度に関して(不連続的差異論以前:2004年9月20日)」

差異と強度に関して

樫村氏は、ドゥルーズの両者の接合は無理があるとして批判しているが、この問題について、私見を述べてみよう。前個体レベルのシニフィアンであるが、それは、無意識=イデア界=内在平面にあるのであり、当然、力=強度を帯びているものである。つまり、強度としてのシニフィアンである。そして、このシニフィアンのセリーも当然、強度としてのセリーである。この強度としてのシニフィアンのセリーが根源にあるのであり、この発現が、個体=象徴界であり、無意識において強度を潜在ないし内在させていると言えるだろう。そして、通常の象徴界的共同体では、無意識の強度は問題とはならないのであるが、単独者としては、強度が顕在的に発動していると言えるだろう。ここにおいて、苦という強度が出現するのである。ニーチェの場合は、彼のすぐれた知的能力(象徴界)とあいまって、強度が象徴界秩序を解体しているのであり、それは、身体という強度において、根源の内在平面、イデア界を喚起していると言えるだろう。つまり、普遍・全体・宇宙的な根源が強度としてニーチェの身体に発現しているのであり、それが象徴界秩序を解体へと追い込んでいると言えるだろう。だから、差異という普遍・全体・宇宙的根源が、身体的強度として発現しているのであり、差異=強度というドゥルーズの図式は説得力をもつと言えるだろう。確かに、ハイデガー的存在=差異化とニーチェの強度=永劫回帰との結合と考えることもできるだろうが、しかし、ドゥルーズにおける差異をイデアのような意味作用と取るのは誤りであろう。簡単に言えば、差異とは、全体・普遍的強度をもつものであり、華厳のような連結的全体・宇宙性と見てもいいだろう。

p.s. 宇宙・全体強度的差異とシニフィアンの関係はどうなるのだろうか。
つまり、シニフィアンという異るものの集合が根源界にはあるだろう。(根井康之氏に倣って、根源的自然といってもいいだろうが。)シニフィアンを記号と言ってもいいかもしれない。あるいは、原記号性と。そして、シニフィアンとは、聴覚/視覚的な原記号ないし原記号作用だと思う。(単に、聴覚的記号ではないだろう。だから、エクリチュールと重なるように思う。)つまり、原記号としてのシニフィアン(原シニフィアンとしよう)=原エクリチュールがあるのであり、これが、ファルス=死の欲動=強度と一如であろう。
シニフィアン=原エクリチュールは正に差異であり、強度である。
ここで、ドゥルーズの差異哲学は精神分析構造主義ニーチェ現象学等を統合したものとしての現代綜合哲学としての成立していると言えるのではないだろうか。


「芸術と政治とメディア界:連続体とゆらぎ」
テーマ:不連続的差異論
後で検討。


「左翼主義とは何か」

今は簡単に触れるが、左翼とは、一見唯物論であるが、実は、観念論的である。頭の中で、体制批判をするのであり、実は、自我欲望に駆られているのである。ルサンチマンである。では、右翼とは、これは、プラス強度である。連続体である。どちらもルサンチマンであるが、前者の方がゆらぐだろう。

p.s. 右翼はプラス強度ではないだろう。プラス強度は左翼の方である。右翼は、マイナス強度とプラス強度がいわば癒着して、母権と父権の融合態になっているのではないか。