近代の差異的過剰と資本主義:連差異資本経済

近代の差異的過剰と資本主義:連差異資本経済文化の胎動

先の記事(差異の90度回転の意味:試論1)で、終わりの方で、現象化において生起する余剰について言及した。思うに、近代とは、現象化において生じるこの余剰である差異によるゆらぎを、差異ではなくて、資本主義へと同化吸収させたと言えよう。芸術家、詩人、哲学者等が、差異に誠実であったのである。あるいは、「狂人」である。(参照:フーコーの『狂気の歴史』http://www10.ocn.ne.jp/~palmiers/philosophy/agoraH4.html
とまれ、近代における現象化において余剰、ゆらぎ、差異が内在するのであるが、これをいわゆる近代合理主義ないし近代的自我へと鋳鉄する権力があったと言えよう。近代科学や近代資本主義や近代教育である。ここで、この基準、近代合理主義の基準に当てはらないものを差別し排除していったのである。その典型がアメリカのハードな資本主義である(アメリカ資本主義は二面あって、他方では、差異を保っているのである。この矛盾は、D.H.ロレンスの『古典アメリカ文学研究』においてパラドックスとして卓越して洞察把捉されているといえよう。)。近代科学主義教育である。これは、人間を差異、ゆらぎのない状態に押し込めるのである。そのため、押さえつけられたゆらぎ、差異は、反動化して、暴力衝動となるのである。少年等の犯罪はおそらくここに起因がある。つまり、個々の差異、ゆらぎが無視される教育・社会となっているのである。
 とまれ、この近代主義の枠が、逆に近代主義暴力の原動力であった。産業革命帝国主義植民地主義、世界戦争、等々。ゆらぎ、差異、強度を、資本主義生産、国民国家・ネーション・ステート(ゆらぎを、天皇制、ナショナリズムキリスト教によって連続的に同化吸収させるのである)、近代合理主義・近代的自我へと押し込んだのであり、その反動化された暴力が駆動力だったのである。差異のない、連続同一化された反動暴力の人間の社会となったのである。ホッブズの自然状態である。この状態はまた、マインドコントロールの状態でもある。近代合理主義的マインドコントロールである。また、反対に、この近代合理主義的洗脳についていけないものは、宗教、とりわけ新興宗教へと向かう。創価学会オウム真理教はそういうものだろう。これも、反動であるが、近代合理主義への反動であり、これも、極端なのである。差異、ゆらぎ、特異性を逸しているのである。
 さて、以上で、近代経済文化の輪郭がつかめただろう。差異喪失の経済文化なのである。初期マルクスは、疎外と呼び、ニーチェニヒリズムと言い、積極的ニヒリズムを説いた。とまれ、近代においては、以上のような資本主義となったが、コギトに生じる余剰生産力があるのであり、これを肯定する経済がありうるのである。それが差異資本経済である。個の差異を肯定する経済文化である。差異と差異との連結(いちおう、連差異と呼ぶ)による連差異資本経済がありうるのであり、実際、今日、これが胎動しているだろう。そして、私は、ホリエモンライブドアにこの連差異資本経済文化の胎動を見ているのである。差異を創造的に開花させること、連結して共に差異を創造的に深化させること、ここに連差異資本経済文化の意義・意味・本体がある。今日、グローバリゼーションによって、近代資本主義が終点に達したのであり、『帝国』時代となったのである。(因みに、社会主義共産主義は、資本主義への反動であった。)ここにおいて、近代主義は飽和して、行き詰まるのである。連続的同一性による国民国家的資本主義は、行き詰まるのである。なぜならば、今や、不連続的差異の資本がグローバルな世界、帝国を「遊牧」していて、旧態の資本主義を攻撃するからである。ノマッド資本主義である。つまり、国民国家資本主義は、連続的同一性の箍(たが)をもっているので、癒着して、硬直して、袋小路に入るのである。閉塞状況になるのである。古い皮袋である。束縛である。近代主義は古くなったのである。これは、ポストモダン状況である。巨視的に見れば、近代とはポストモダンを内在させていたのである。そして、今や、これが明瞭となったのである。近代的自我はもはや旧態であり、進展性がないのである。鋳型にはまっているのである(フジサンケイ・グループ、自民党公明党)。
 ということで、差異資本主義、連差異資本経済文化が、ここではっきりと胎動しているのがわかるのである。差異、ゆらぎ、特異性の肯定である。連差異において、平和的創造生産が為されるだろう。21世紀以降は、連差異資本創造平和経済文化の時代となろう。これが占星学でいう水瓶座宝瓶宮の時代の真相であろう。