差異の90度回転の意味:試論1

差異と差異との境界が90度回転を意味するならば、また、メディア界へさらに直交的に90度回転するならば、その回転の意味は何なのであろうか。これは、差異と差異との関係にある種強度が発生し、そして、展開するということではないのか。境界強度との呼べるかもしれない。ならば、差異・境界・強度という三一態があろう。
 さて、私が問題にしたいのは、この不連続性と連続性との「差異」である。つまり、差異の境界から強度が発生するのであるが、どうして、擬制連続体においては、一般に強度が失われるのかということである。思うに、ここには、錯視があるのだろう。ある差異と別の差異とが連続であるという錯視があるのだろう。神話では、ナルシスの神話であろう。己の影と同一化するという錯視だろう。つまり、差異は他の差異との連続同一化という錯視をもつということだろう。己を掩蔽するということだろう。ならば、差異の強度をもつ差異とは何か。つまり、差異の特異性を「意識」する差異とは何なのか。哲学でいえば、ニーチェである。どうして、擬制連続態と差異特異性との「差異」が生じるのか。そう、これは、正に、プラトンの問題である。イデア仮象との問題である。洞窟の比喩。影を現実と思う視覚思考がある。幻影思考である。どうして、幻影に囚われるのかである。そう、仏教の問題でもある。色即是空である。空であるのに、色と見る。これは、空=色ということだろう。しかし、ある者は、空・差異特異性を感じる。ここで、英国の詩人・版画家のウィリアム・ブレイクの詩を想起する。真のヴィジョンと偽の現象との区別を説いている。また、カントの超越論的形式と物自体との区別も連想する。物自体とは、空・差異特異性だ。そう、本来はこの区別があるはずである。だから、哲学や宗教等があるのだ。しかし、現実は、「無明」に陥る。光ではなくて、影を見ている。ここには、不正、虚偽、欺瞞等がある。現象のそれ。酔い。あるいは、「視覚」の問題。錯視と正視。イルージョンとヴィジョン。幻影と本体。フジとライブドア。プラス強度とマイナス強度。本来、両極・両義的であるはずなのに、前者に傾く。ここに歪みがある。偏向がある。(心理学ないし生物学的には説明がつく。人間の場合、脳神経と身体の神経とのズレがあり、前者が後者を補うのだ。)これは、また権力の問題でもある。(仏教やプラトニズムは本来、脱権力化の知なのだ。無明・解脱・悟り・覚知、無知の知イデア。)
 思うに、メディア界とは、ゆらぎの領域だから、現象に固定していない。だから、90度回転でも、現象化への回転が問題なのである。xy座標がイデア界、xyz座標がメディア界とするならば、xyzα座標が現象界だろう。四次元(参照:アインシュタインの時空四次元連続体)である。このαが問題である。これが、現象軸と呼べるものだろう。あるいは、連続同一軸である。これは、カントの超越論的形式に当たるだろう。これがあるために、マイナス強度が無視されるのだ。差異が無視されるのだ。そう、私がこれまで使った意味とは別に、現象面とも呼べるだろう。われわれは、この現象面を見て生活しているのだ。連続同一欲望現象面=色である。ルサンチマンでもある。受動反動暴力である。無明である。自我である。また、弱さである。(ニーチェはこれを徹底的に攻撃したのだ。)この囚われはどこから来るのか。現象軸、現象面とは何か。そう、これは、連続同一性化の軸なのだ。いわば、反照軸。自己反照軸。己が己を映すのだ。ナルシス。このα軸への移行とは、反転ではないか。(ここで、ハイデッガー存在論を想起する。あるいは、D.H.ロレンスの黒い太陽を。)iii=−i だろうか。とまれ、ここはまた悪の領域である。ブッシュの領域である。権力者やそれに従う蛮人の領域である。貨幣の領域である。メディア界にある差異/強度が、いわば癒着凝固して、連続同一化して時空連続体に変幻するのだ。ここでは、もはや、強度ではなくて、物質エネルギー(E=mcc)が支配する。メディア界転換は確かに大きな「事件・出来事」であるが、現象界転換・転回はもっと大きな「事件・出来事」であろう。つまり、有限化である。超越論的形式化である。その規制である。そう、ここで、時間や空間が形成されるのだろう。いわば、無限の強度が、ここで、有限の時空間に変換されるのだ。この現象界転換が何であるかである。無限から有限への転換である。虚から実への転換である。強度からエネルギーへの転換・変換である。トランスフォームである。ハイデッガー存在論はここを問題にしているのだろう。微分積分変換である。差異特異性が連続同一性へと転換する。そうだ。強度ないしエネルゲイアが、連続同一性のエネルギー・E=mcc(デュナミス?)へと転化される領域が、α軸なのだ。差異/同一性変換機能をα軸はもつと言えよう。これは、カントの超越論的形式と一致しよう。このα機能があるために、いわば無明なのである。蒙昧なのである。結局、「自然」の状態では、このα機能に囚われたままであり、無知蒙昧状態、野蛮状態である。ホッブズの自然である。ヘーゲルの「理性」である。国家野蛮という状態である。これで、とりあえず、この問題は解決したとしておこう。
 では、このα化、現象化からの脱出・逃走はどこから発するのか。α化が自然ならば、これは、反自然である。連続同一性から差異特異性への回帰はどこから発するのか。そう、デカルトのコギトはそういうものだろう。また、芸術の創造の根源がそうだろう。あるいは、カントの物自体である。初期マルクスの自然であろう。D.H.ロレンスのコスモスである。仏教の発心である。スピノザの喜びの『エチカ』である。こういうことではないか。α化とは、連続同一化とは、本来偽りである。本体は差異特異性である。このα化、いわばα転換、現象転換とは、無理があるのである。すなわち、余剰ないし過剰が生じてしまうのである。これは、心身両面(心身平行面)で生じることである。精神面ではコギト問題であり、身体面では、揺らぎないし強度的特異性である。だから、α転換とは、二元論なのである。一方では、連続同一性を生産するが、他方では、余剰として、コギト/揺らぎ・身体強度を生産するのである。正に、カント哲学状態である。アンチノミー生産である。(さらに言えば、資本主義はこのようなものであるが、近代資本主義は、前者中心であった。そして、今や『帝国』のエポックで、後者が意味をもったのである。私はそれを差異資本主義と名付けているが、それは、現代日本では、ホリエモンライブドアとなって出現している。)しかるに、近代とは、これを無視して、連続同一性主義だったのである。また、ポストモダンとは、本来、この近代主義を批判して、突破するはずのものであった。これが行き詰まったのは、連続性が完全に払拭できなかったからだ。デリダ脱構築主義は、解体と同時に、連続同一性を意味していたし、ドゥルーズは、ベルグソンの連続的差異=微分に染まっていた。では、本来、両義的であるはずのコギトや身体(思うに、デカルトスピノザはそれほど距離がない。また、カントも近い。)がどうして、連続同一性に陥ったのかである。これは、近代西欧経済文化が起因である。それは、ロゴス・イデア(差異)を言葉(連続同一性)に変換させた経済文化なのである。つまり、西方キリスト教が、この源泉である。東方キリスト教のもっていたソフィア(イデア・ロゴス)を喪失した西方キリスト教がこの根源である。【ここで、イタリアと西欧の問題がある。イタリアは中間領域、一種メディア界領域である。ここは、東方と西方の中間領域なのである。これは後で検討したい。】そして、西方キリスト教プロテスタンティズムとなって、西欧、そしてとりわけアメリカを生んだのである。しかし、正しく見るならば、近代とは、ルネッサンスプロテスタンティズムの両義・両極的指向をもつのである。そして、今や、帝国時代にあって、新たに前者が差異資本主義となって発現しているのである。これは、ポスト近代、ポスト近代西欧、ポスト・キリスト教、ポスト近代資本主義である。
 以上、α化、現象化、連続同一性の問題を解明したこととしよう。