聖霊時代、相対性理論/量子論、差異革命

[不連続的差異論] 聖霊時代、相対性理論量子論、差異革命


1)聖母マリアの受胎とは何か:コーラと聖母マリア:「イエス」とは何か:イシス・オシリス神話:折口信夫死者の書』:聖母マリア・コーラに「受胎」した「イエス」はプラス強度をもっていた(父の子)。しかるに、「聖霊」をイエスは唱えた。「聖霊」とは何か。天使は、「聖霊」のメッセンジャーであろう。あるいは、天使は「聖霊」と見ていい。イデア界と現象界を交通するメディアである。「聖霊」とは、差異的個体において、イデア界・不連続的差異を告知するものである。それは、差異の強度、すなわち、差異のマイナス強度であり、連続的同一性を解体するのである。イエスオシリスは復活するのか。そのまま、再生はしないだろう。連続的同一性である「父の子」が解体して、「聖霊」が作動する。すなわち、母の子となるだろう。母とはコーラであり、ほぼイデア界である。母の子としての復活だろう。それは、差異の強度をもつ。そう、差異強度が「聖霊」である。それは、差異資本の強度でもある。だから、聖霊資本主義となる。差異資本主義である。新ポストモダン資本主義である。脱構造資本主義である(以前、私はポスト構造主義を脱構造主義と呼んだ方が的確であると述べたことがある)。


2)相対性理論量子論:ゆらぎ:メディア界:相対性理論であるが、E=mccとは、エネルギー保存則ではないか。それは、現象界のエネルギーを指してはいるが、実は、メディア界における差異/強度の擬制連続態・様態を意味しているのではないだろうか。すなわち、差異が質料となり、強度が光速へと連続的分化をするのだろう。しかし、差異/強度とは、いわば一如のものであり、それを、アインシュタインの公式は示していると考えられる。つまり、それは、メディア界の「物理学」の公式にほぼ等しいのである。さて、では、量子論はというと、それは、粒子/波動の相補性を説いているが、それは、正に、メディア界における「物質」のふるまいの記述であろう。粒子とは差異の擬制連続態であり、波動とは強度の擬制連続態であろう。つまり、これは、ただしく言えば、メディア界と現象界との境界の記述である。では、相対性理論量子論との関係はどうなるのかと言えば、両者ともに、メディア界と現象界との境界を合理化している点で共通しているのであるが、前者はマクロの記述であり、後者はミクロの記述である点で、相違が現れていると見ることができよう。つまり、両者は矛盾しないのである。換言すると、相対性理論量子論との相補性が成立しているのだ。


3)ポスト近代的教育論:不連続的差異的教育論:文科省的中央集権的連続的教育を超えて:教育の分権化・民営化へ


4)連続的政治を超えて:不連続的政治へ:連続的自我の欺瞞・偽善性:国民への顔と内在する独裁性:近代という古い仮面:新ポストモダンの政治へ


5)フジ/ライブドア問題:今の政府等の動きをみると、おそらく、司法は、保守反動路線の判断を下すだろう。せいぜい、妥協的判断だろう。そして、マスコミ・マスメディアは、新保守主義を強化するだろう。ますます、大政翼賛会的になるだろう。しかし、実際、テレビや新聞は解体していくだろう。自業自得ではある。内部改革はできないものである。では、ポスト・マスコミとは何だろうか。ITメディアの爆発的発展だろう。差異資本メディアの発展である。ノマッド型資本の浸透である。とまれ、今回の判決は呼び水となろう。差異革命は永久革命である。