多元的差異経済:メディア界的通貨の可能性

多元的差異経済:メディア界的通貨の可能性


社会、自然、人間には、多種多様な差異があり、それを一元化するのは、当然誤りである。しかし、資本の論理は通常一元論的であり、差異を無視する。ここに、資本主義経済の問題点がある。すなわち、連続性の資本主義である。それに対して、これまで、差異資本主義ないし差異経済等を唱えてきた。しかし、いまだまったく抽象観念のまま、机上のままである。明確に言えば、不連続的差異の集合体として存在はある。それに対して、連続資本は、同一性、観念形式性をもつ。角度を変えてみると、多種多様な差異を同一性に変換するのが資本主義である。この同一性への変換は、ある種智慧であるが、人間を自我化=悪魔化する。これは排他的な欲望をもつものである。だから、これを保障するものが必要である。すなわち、貨幣や資本の差異化である。逆方向である。差異を同一性にする経済と資本を差異化する経済がある。そう、前者をプラス・エネルギーとするならば、後者はマイナス・エネルギーである。いわば相補性経済となる。先に、私は、前者には有利子通貨、後者にはマイナス利子通貨を使用すればいいと考えたことがある。これはそれなりに筋が通っていよう。問題は、やはり、差異なのである。連続化した資本を差異化しないことには、資本が権力化する。差異へと回帰するのにマイナス利子通貨を使うのは面倒な気がする。やはり、不連続的差異へと配分する必要があると思う。こうしないと、自然環境は悪化し、また貧富の差が拡大するし、戦争が絶えない。不連続的差異を連続化して、さらに不連続化するというシステムの構築である。連続的資本主義から不連続的差異資本主義への変換である。このための方法が必要である。もしすべてマイナス利子通貨にしたらどうだろうか。仮想実験である。貨幣が減価する。貨幣がいわば自然化されるのだ。自然通貨である。極端に言えば、葉っぱを貨幣にするようなものだ。枯れていくのである。百円が百葉である。一万円が一万葉である。これは楽しい。なにかに使わないと、枯葉となり、消滅する。生きた通貨である。生命通貨である。生死通貨である。現実的ではないが、これは資本を不連続化するだろう、確かに。しかしながら、不連続的差異論からは、メディア通貨が予想されるだろう。それは、一方では連続的同一性であり、他方では不連続的差異性である。ゆらぐ通貨である。同一性である交換価値があるが、同時に多元的不連続的価値の集合体である。たとえば、一万円があるとしよう。紙幣の表には、一万円と表記されているのに対して、裏面には、多元的不連続的差異が記述されているとしよう。農業差異、林業差異、福祉差異、IT差異、住居差異、上下水道差異等々である。たとえば、一万円で、バッグを買ったとしよう。ここで、購入者ないし販売者は、一万円を差異化する義務があるとしよう。たとえば、農業差異だけに、一万円を指定することができるとしよう。すると、農業差異化された一万円であり、それは、農業関係しか使用できないことになる。以下同様である。しかし、バランスよく多元的な差異に配分する義務が課されているのである。だから、たとえば、一つの差異の投資にすべて使うことは認められないのである。たとえば、農業差異10%、環境差異10%、福祉差異10%、年金差異10%、純粋貯蓄差異10%、等々である。トータルでこれを満たす義務があるのである。後で、再検討しよう。