ポスト近代資本主義としての不連続的差異IT経済

今は余裕がないので、簡単に触れると、デカルトのコギトの意味に関係するのだが、「わたし」とは何かという問題でもある。連続的同一性である「言語」を通してアイデンティティ(identity:同一性)を形成するということは、欲望がそれと一体となっているために、連続的同一性である「権力」を指向するのである。欲望とは、この場合、反動能動性である。傲慢さ・暴力性をもつ。そして、これが、近代資本主義(民族国家資本主義)を形成したのである。だが、何かがこれを解体するのである。何か。それは、連続的同一性の権力によって疎外された「個」の強度・「力」・「力量」の永遠の発動である。連続同一化された資本主義を「個」の「力量」が解体するのである。それは、いわば脱構築の「パワー」である。その経済文化とは、「個」と「個」の双方向主義あるいは多双方向主義である。これが、IT経済文化である。テレビ、新聞、雑誌、映画、ラジオ等々は、連続同一性のメディア経済文化である。なぜならば、マスコミは、マスである大衆を代表(連続的同一性)して、知や情報を伝えるメディアであるからだ。この代表とは、表象・再現(レプレゼンテーション)の意味をもつが、連続的同一性は、反動能動性であるから、ヒエラルキー、上下構造を形成し、エリートとなるのである。(これは、学問の世界も同様である。また、学校も同様。)すなわち、マスコミの「権力」化が必然的に起こるのである。フジサンケイ・グループである。NHKである。読売/日テレである。等々。これは、袋小路を生む。行き詰まる。「個」が掩蔽されているのである。無視されているのである。疎外されているのである。「個」が鬱勃と反逆的に行動する。「個」に基づく経済を指向する。ポスト近代資本主義である。不連続的差異資本主義である。これは、近代資本主義を解体する。差異であるコギトが対話する経済・双方向経済が発動する。差異民主主義資本経済。思うに、国家・行政の役割は変容する。それは、差異共立共生のための差異分配・差異秩序構成のための調整機関になるだろう。
 問題は、差異経済を、成立させるための、差異的連結である。活用されていない差異価値を連結させて新たな差異価値を創造することである。そう、この創造的差異連結が新たな商品価値を生む。すなわち、創造的差異連結によって、多様な差異をつなぎ、差異民主主義経済を実現していくこととなろう。イギリスの小説家E.M.フォースターは、「ただつなげよ(つなげるだけ)」と言った。これは不連続的差異の「連結」の意味でなくてはならない。連続的同一性の場合は、連結というよりは、癒着となろう。談合となろう。ということで、たとえば、地域の差異と中央の差異との連結で、新たな差異経済文化が創造されるだろう。ここでは、アイデアと実行力が要求される。創造的アイデアとは、強度をもつのである。なぜならば、それは、旧態依然の硬直した経済文化の連続的同一態を解体するゆらぎをもつからである。権力・権威・腐敗化した既成の経済文化体制を破壊する新構築力をもつからである。そう、ここには差異の賦活があるのである。閉塞していた差異が覚醒するのである。発火するのである。爆発するのである。内在する怒れる差異が、差異経済文化創造へと外在化するのである。内なる差異が外なる差異を創造編成する。そう、内なる差異は表現し、また他者の差異と交信・対話し、差異が差異化される。差異の差異化。そして、この差異の差異の外在・対自化によって新たな経済文化が生まれる。差異の差異の表現・生産の交通である新しい経済文化。これは、ITというメディアがよくするとことである。そう、経済のIT化とは、不連続的差異経済の具現である。だから、不連続的差異IT経済である。これは、差異の倫理をもつのであり、各差異の存在を肯定して、差異共生の社会形成を目指すのである。だから、不連続的差異共生IT経済である。あるいは、不連続的差異共創共生IT経済である。これは、差異のさらなる創造を指向する経済文化である。不連続的差異IT経済文化レヴォリューションの点火。