不連続的差異経済学、フジ/ライブドアの争いを超えて、他

[経済][不連続的差異論] 不連続的差異経済学:試論1


結局、多様な差異があるのである。一人一人が差異である。そして、この差異の共存態としての「経済」があるべきであるが、現在の資本主義は、「弱肉強食」である。私は、法制によって、資本主義を不連続的差異化すべきように思う。つまり、業種や収益等の差異によって税制を変化させて、全体のバランスを取るというものである。たぶん、これは一国だけでなく、世界全体をも考慮にいれるべきである。たとえば、アメリカはその収益を他国や労働者等にもバランスよく配分すべきである。それがなく、富裕層に富が集中するから、戦争や環境破壊等が生まれるのである。たぶん、基本的な差異税制を形成すべきではないだろうか。中央と地方との差異税制、第一次産業と他の産業の差異税制(現代のよりも質的内容を含む)、福祉・環境・教育等と他の生産との差異税制等々である。中央には、資本が集中するのだから、税制で、いわば規制するのである。たとえば、中央が7で、地方が3である。資本の「灌漑設備」である。あるいは、第一次産業が2で、他の産業が8である。そして、福祉・環境・教育等は6で、他が4である。ただし、これはこのままだと「社会主義」になる。そうではなくて、市場制が必要だろう。対話させるのである。対話なき制度は自己完結して腐敗静止する。だから、不連続的差異的資本市場対話経済である。各差異が活性化される均衡的案配をするのである。


p.s. 不連続的差異市場経済


p.p.s. 不連続的差異双方向経済:だから、ホリエモンのプランは、正鵠を射ているのである。現代のマスコミは、対話なきメディアであり、権力のメディアとなっている。NHKしかりである。また、政治もしかりである。これまで、連続的概念=代表制の「民主主義」であったが、結局、今や、不連続的差異的「民主主義」経済が出現しだしたのである。これは、レヴォリューション以外のなにものでもない。



[不連続的差異論][経済] フジ/ライブドアの争いを超えて

今回の争いであるが、これは、根本的変化の序奏である。日枝会長は、心中安心はできないだろう。これは、時代転換というか、それより大きな変革期の現れである。このすさまじい変化に日本はついていけるのかという疑問もある。これは、国家の溶解である。国民が、単独的個となるという事態である。近代を成立させたネーション・ステートの崩壊の事態である。ライブドアの凄味はそこにあるのである。新旧交代とは口当たりのいい言い方である。事態ははるかに超えている。国家の解体である。国家は「帝国」の出先機関にいまや過ぎないのである。問題の本質がすべて変わってしまったのである。哲学的にいうと、これはニーチェがいち早く気づいていた事態である。「ニヒリズム」と哲学では言われるが、これは、差異、特異性の問題なのである。これはあらゆる連続体を破壊せずにはいないのである。自殺者三万人とは、ある意味で、これを反映している。これまでの意味が崩壊したのである。とまれ、差異資本主義については、別に述べたい。


[経済] 不連続的差異的多元的市場資本経済の可能性

私は、マイナス利子通貨の必要を考えているが、ひょっとしたら、プラス利子通貨のままでも、差異資本主義は機能するかもしれないと思ったりする。なぜならば、環境、教育、福祉、第一次産業という利益の乏しいと思われる領域に関しても、差異資本化したら、取引されるのではないかと思われる。たぶん、税制の方が重要なように思える。トヨタに重い環境税をかけるか、あるは、自然再生的営為をしたときは、控除するというようにすればいいのではないだろうか。以上の領域の問題は差異資本の問題である。そう、複数の差異があるのだから、複数の差異資本が必要なはずである。つまり、現在の資本主義は連続同一化していて、差異がなく画一的なのだ。そうではなくて、多様な、複数の、多元的差異を基盤とすることで、多様な差異資本の構築ができるはずである。環境差異資本であり、福祉差異資本であり、教育差異資本であり、農林水産業差異資本、地域差異資本等である。必然的に配分が決まってくるだろう。国家予算を、そのように配分するのである。つまり、それらの差異資本は種類が違うから不連続的差異なのである。すなわち、不連続的差異資本主義にすれば、多様な資本の配分・還流ができて、循環・整合・均衡的に作用するはずである。ならば、マイナス利子通貨はいらないこととなる。



[不連続的差異論][経済] フジ/ライブドアの争いを超えて


今回の争いであるが、これは、根本的変化の序奏である。日枝会長は、心中安心はできないだろう。これは、時代転換というか、それより大きな変革期の現れである。このすさまじい変化に日本はついていけるのかという疑問もある。これは、国家の溶解である。国民が、単独的個となるという事態である。近代を成立させたネーション・ステートの崩壊の事態である。ライブドアの凄味はそこにあるのである。新旧交代とは口当たりのいい言い方である。事態ははるかに超えている。国家の解体である。国家は「帝国」の出先機関にいまや過ぎないのである。問題の本質がすべて変わってしまったのである。哲学的にいうと、これはニーチェがいち早く気づいていた事態である。「ニヒリズム」と哲学では言われるが、これは、差異、特異性の問題なのである。これはあらゆる連続体を破壊せずにはいないのである。自殺者三万人とは、ある意味で、これを反映している。これまでの意味が崩壊したのである。とまれ、差異資本主義については、別に述べたい。



[経済] 不連続的差異的多元的市場資本経済の可能性


私は、マイナス利子通貨の必要を考えているが、ひょっとしたら、プラス利子通貨のままでも、差異資本主義は機能するかもしれないと思ったりする。なぜならば、環境、教育、福祉、第一次産業という利益の乏しいと思われる領域に関しても、差異資本化したら、取引されるのではないかと思われる。たぶん、税制の方が重要なように思える。トヨタに重い環境税をかけるか、あるは、自然再生的営為をしたときは、控除するというようにすればいいのではないだろうか。以上の領域の問題は差異資本の問題である。そう、複数の差異があるのだから、複数の差異資本が必要なはずである。つまり、現在の資本主義は連続同一化していて、差異がなく画一的なのだ。そうではなくて、多様な、複数の、多元的差異を基盤とすることで、多様な差異資本の構築ができるはずである。環境差異資本であり、福祉差異資本であり、教育差異資本であり、農林水産業差異資本、地域差異資本等である。必然的に配分が決まってくるだろう。国家予算を、そのように配分するのである。つまり、それらの差異資本は種類が違うから不連続的差異なのである。すなわち、不連続的差異資本主義にすれば、多様な資本の配分・還流ができて、循環・整合・均衡的に作用するはずである。ならば、マイナス利子通貨はいらないこととなる。