差異と自我:二つの資本主義の戦争

[不連続的差異論][経済] 差異と自我:二つの資本主義の戦争

差異的個体にとっては、民族や国家や共同体(会社)を含めて、それらは帰属する対象ではない。差異は差異である。単独的、特異的個である。自我とは、何かモデル・雛型になるものを鏡にして成立するものである。反射的な個体である。それは、連続的同一性をもつのである。それは、カントで言えば、超越論的形式をモデルにしたものだろう。言語的同一性と言ってもいいだろう。民族であり、国家であり、共同体である。ヘーゲルハイデッガーである(もっとも、ハイデッガーは単純ではないが)。言語的連続同一性である自我は、一般観念形式の支配・規制を受け、またそれを増殖する(近代西欧キリスト教はこのようなものだろう。ロゴスを言葉に貶めて成立したのだ。ロゴスはほぼイデアである。言葉は、連続的同一性の形式である)。
 自我欲望は、自我欲望を模倣するだろう。それは、差異を隠蔽して、ゆらぎのない形態を欲するのである。それは、貨幣形式である。これが、民族国家資本主義を形成するだろう。しかし、近代は、コギトは、差異を内在している。つまり、自我的資本主義とは異なる、差異的資本主義が考えられる。二つの資本主義である。前者を連続的資本主義、後者を不連続的資本主義と呼べるだろう。あるいは、同一性資本主義、差異資本主義。あるいは、連続的同一性資本主義と不連続的差異資本主義である。そして、実際、この二つの資本主義が併存しているのである。グローバリゼーションと言った場合も同様である。今回のフジ/ライブドア戦争とは、正に二つの資本主義の戦争である。どこへわれわれは向かうのか。おのずと答は出ている。不連続的差異資本主義へと世界は向かう。