太陽系の差異について:太陽と月の二元論

太陽系の差異について:太陽と月の二元論


まず、身体のメディア界性から再確認していこう。身体は、ゆらぎの場であり、不連続的差異と連続的同一性とがゆらいでいるのである。これが身体のメディア界性である。しかし、連続的同一性とは擬制であることに注意しないといけない。それは、仮想である。仮象である。真実の表象である。この身体という基盤から感覚、知覚、イメージ、言語、意識、自己・自我、認識等が展開するのである。そして、連続的同一性=自我の傾向・指向は、身体のゆらぎを無化・否定するように、反動・能動的に進展するのである。しかし、無化・否定とは言え、実際は、ゆらぎが隠蔽的に内包されるようにして、自我形成されるのである。これは主に男性の事態である。それに対して、女性の場合は、マイナス・エネルギーであり、自我を解体する方向をもち、ゆらぎを指向する自己を形成する。すなわち、男性の場合、自我と身体とが自我知と物質的身体の二元論になるのに対して、女性の場合、自己のうちに、身体のゆらぎをもっているのである。複数の不連続的差異の共立態をもっているのである。すなわち、女性の自己とは特異個的である。多様に生成変化すると考えられる。(女性は気まぐれと言われるのは、これに起因していると言えよう。そう、リゾーム的存在である。)
 さて、これで再確認したので、ここから新たに展開したい。この身体のゆらぎをもつ自己の問題である。女性的自己ないし女性的身心の問題である。ここで、プラス・エネルギー、プラス強度、陽力が自我(連続的同一性、擬制自我)を形成するならば、マイナス・エネルギー、マイナス強度、陰力は、その自我を解体するゆらぎを形成すると言えよう。ここで、作業仮説したいのは、差異/強度の問題であるが、つまり、差異を擬制連続化するプラス強度とゆらぎを生成するマイナス強度についてであるが、プラス強度が「太陽」であり、マイナス強度が「月」ではないだろうか。ならば、「太陽」と「月」とは、差異/強度のいわば実現態である。問題はプラス、「太陽」の場合、差異が連続化することであり、マイナス、「月」の場合は、差異が元の不連続的差異に返ることである。つまり、前者において、自我と身体との二元論が形成されるのに対して、後者においては、自我から身体的自己へと転化することである。後者は、複数の不連続的差異性を帯びているのであり、ゆらぐのである。すなわち、身体のメディア界が再発現した自己であるということである。不連続的自己と連続的自我とのゆらぎ状態とも言えよう。この「月」・陰の状態は、身体が賦活された状態である。それに対して、「太陽」・陽は自我(擬制自我)が強化された状態である。
  さて、ここでまた作業仮説するのであるが、「月」とは、12、30と関係し、「太陽」は、2(二元論)と関係するだろうということである。(ついでに言えば、「地球」は4(四季)であろう。)では、5と10はどこに発しているのだろうか。思うに、これも作業仮説であるが、太陽系のイデアの不連続的差異の数ではないだろうか。5が太陽系の差異数なのである。5個、不連続的差異があるのである。これが、プラス・エネルギー(陽)とマイナス・エネルギー(陰)のときがある。前者では5の連続態であり、後者では5の不連続態である。いわば、+5と−5がある。だから、5×2=10の差異がある。しかし、可視の太陽系は+5である。5「惑星」である。そして、これが「太陽」と一体である。それに対して、不可視の太陽系があり、それが−5「惑星」であり、これが「月」と一体である。思うに、差異強度は「太陽」と「月」、陰陽である。これが、現象的には、太陽と月になるのではないか。つまり、太陽/月(陰陽)は、差異強度の現象・発現である。そして、それに5差異=「惑星」(5行=水金火木土)がともない、現象の5惑星(水星/金星/火星/木星土星)となるのではないか。そう、だから、可視の5惑星と不可視の5惑星(−強度5惑星)があり、合わせて10惑星がある。これが十干(5行×陰陽=10)に関係するのではないだろうか。しかしながら、この論理で言うと、「月」は、マイナス差異強度だから、不可視のはずではないか。プラス差異強度が太陽となり、マイナス差異強度が不可視の太陽となるのではないか。(この辺は実に興味深い箇所である。)だから、「月」は不可視の太陽である可能性があるだろう。ならば、現象の月とは何なのか。思うに、推測するに、現象の太陽と現象の月とはセット、一対のものではないだろうか。一如のものではないだろうか。つまり、太陽と月との分化があったのだろう。原太陽があって、それが太陽と月に分化したということとなる。原太陽とは、プラス差異強度である。しかし、それでは、12や30という数が出現しない。原太陽が分化して、12や30という数が生まれたと言えよう。ならば、原太陽は12と30という差異を内在していたこととなろう。つまり、差異強度は12と30を内在しているということとなる。ということは、差異強度とは、12の差異を元々もっていたこととなろう。すると、初めの5差異・惑星との関係はどうなるのだろうか。5差異と12差異。しかし、これではおかしいだろう。12は差異ではなくて、強度の強度ではないか。差異強度は、内在的に12の筋目をもっているということではないか。思うに、これは、不連続的差異の一回転(360度)ではないか。すなわち、5つの不連続的差異(「惑星」)があり、差異強度はプラスとマイナスのほかに、一回転(360度)の、いわば回転強度をもっているということではないか。差異強度との混乱を避けるならば、回転モーメント、回転力度でもいいだろう。ということで、以上の作業仮説を整理すると、太陽系のイデア・差異とは、5個の不連続的差異をもち、差異それぞれ、回転モーメント(回転力度)をもち、それは12ないし30の数値となり、また共立ないし連立する強度がある。それが差異強度であり、プラスとマイナスの強度(陰陽)の二種類ある。だから、差異、回転、強度があり、「原太陽」は、回転と強度をもち、それぞれ、「月」と「太陽」に分化したのではないだろうか。だから、「月」は回転運動に関係するのであり、「太陽」は差異強度に関係する。結局、差異の5,回転の12、強度の2が太陽系のイデア・差異の構成数としてあると言えよう。


差異×強度=5×2=10→十干?
差異×回転=5×12(30度)=60(150度)→時間単位?
回転×強度=12×2=24→二十四節気
差異×回転×強度=5×12×2=120=三等分割?


では、問題は差異の5と回転の12との関係である。一回転360度を5等分すると、72度となり、正五角形ないしペンタグラム(五芒星形)が形成されよう。差異の5による5等分割である。差異の5は5「惑星」である。5「惑星」が星形を形成するのである。たぶん、これがいわば公正なバランス、均等であろう。(因に、D.H.ロレンスは「星の均衡」ということを述べたが、それはこのことなのだろうか。)とまれ、5と72とが、差異の数である。そして、


72×60=4320 
4320×60÷10=25920(プラトン年)
25920÷12=2160(プラトン月)


となる。差異の回転力度72度×60×60÷10=25920(プラトン年)である。60を太陽系数とすると、差異の太陽系数化が4320であり、これをさらに、太陽系数化し、10で割るとプラトン年となる。太陽の(見かけの)の歳差運動は地軸の回転に関係する。60という数は5差異と12「日月」をかけたものである。5「惑星」と12「日月」の関係数であり、太陽系数である。「惑星」の回転力度72度×60×60÷10=25920(プラトン年)とは何か。72×360=25920である。これは、「惑星」・差異の一回転であろう。というか、一螺旋ではないか。地球や太陽系が一螺旋するのではないか。銀河系において。そして、これを12等分して、2160年というプラトン月が形成されるが、12は「日月」の数であり、一螺旋の「日月」であろう。
 さらに問題にしたいのは、「星座」の性質である。それは、差異強度、差異回転等によるだろう。思うに、複素平面等で座標化できるのではないだろうか。とまれ、差異強度のプラス/マイナスの極性強度によって、太陽系の陰陽が形成されよう。「魚座双魚宮」とは、まったき現象界化であり、二元論化である。精神と身体という分化。この差異強度は何か。つまり、精神差異と身体差異との分化・分裂を生じさせた。精神差異は自我であり、連続的同一性化である。そして、プラス強度・男性のマイナス強度・女性への優位である。すなわち、二項対立の形成である。連続性が不連続性を隠蔽するのである。プラス>マイナスである。思うに、差異強度とは、常にプラス/マイナス、陰陽のスペクトラム状態であり、生成変動しているのだ。だから、魚座双魚宮とは、プラス極大/マイナス極小の関係である。しかし、差異全体は変動するのである。回転するのである。だから、次第に、プラス強度は弱化し、マイナス強度が強化する。これが、「星座文化期」の意味だろう。2160年文化エポックである。そして、マイナス強度が増して、ゆらぎが生じて、プラス強度の既成制度が保守反動となる。アンシャンレジームとなる。旧体制である。守旧派である。とまれ、マイナス強度は作用し、水瓶座宝瓶宮エポックに入っていく。そして、今度はゆらぎをもった文化が形成されるのだが、魚座のプラス強度の長所は保だろう。それは知性だろう。理性ではなく。そして、ゆらぐ身体と知性とをもつ心身となる。これは、差異の知性であり、差異理性だろう。では、水瓶座はどう進展するのだろうか。結局、マイナス強度が復帰すると、いわば0度になり、またプラス強度が始まるのだろう。しかし、今度は、魚座とは全く異なろう。ゆらぎから、存在を変化させるだろう。いわば理想が実践される文化期であろう。さて、思うに、「星座」文化期とは、プラス/マイナスの配分の相違に基づくのではないだろうか。というか、ここで区別しないといけない。差異極度のプラス/マイナスの極性は普遍的である。しかるに、それとは別に差異回転力度(モーメント)があるだろう。この度合いが「星座」文化期を規定するのではないだろうか。そして、魚座文化期とは、回転度が、プラス度に傾いていたのだ。そして、それが終わり、マイナス度へと移行して、均衡・調和をとるようになるのだろう。これが水瓶座文化期の意味であろう。