差異相補経済について:差異/強度相補性:試論1

[経済] 差異相補経済について:差異/強度相補性:試論1


差異経済ないし共差異経済について、さらに検討を深めたい。先ず、作業仮説として、男性はプラス・エネルギー(正の強度)があり、女性はマイナス・エネルギー(負の強度)があるとしよう。また、前者は連続的同一性の自我主義へ、後者は、不連続的差異共立主義へと向かう傾向があるとしよう。そして、前者が反動/能動的であり、後者は受動/肯定的である。これは理論として述べているのであり、事態はこのようなクリアカットなものではなく、混成的である。
 これまでの近代西欧化とは、前者中心で後者を抑圧するものであった。資本主義はそういうものとして発展し、その帰結がグローバリゼーションである。(正確に言うと、イタリア・ルネッサンスを創ったイタリア的資本主義は、アングロサクソン的資本主義とは異なると私は考える。前者は、先にも述べたが、差異資本主義、差異共創資本主義であると考えられる。)そして、日本経済(私は経済を全体を包括する概念として捉えるつもりである。社会、文化、生活等々をも包括した概念として考えたい。)において、ポスト・バブルの超閉塞状況が生じた。これは、日本経済の連続的同一性化によるものであり、「国民」、「庶民」は、それによって抑圧された生活を強いられているのである。しかし、世界経済は動いている。差異としての経済、差異経済と呼ぶことができる新しい経済の動きが出現してきたと言えるだろう。では、差異とは何か、差異経済とは何かを考えてみよう。
 差異とは、プラスの強度とマイナスの強度をもつだろう。前者は能動的・アグレッシヴであるし、後者は、差異共存的・平和的である。アメリカ資本主義は前者中心であることは言うまでもないだろう。しかし、前者は差異の連続的同一化によるものであり、後者が隠蔽されているのであり、民主主義が阻害されるのである。結局、現代、このような状況で、差異が、新たに賦活され、復活してきたと言えるだろう。それは、これまでの、前者中心による連続性によって生じた既得権力の「民族国家資本主義」体制に不満を覚え、それは打破せんとする差異強度をもつ。これは、相補的な強度である。プラス・マイナスのエネルギー・強度をもつと言えよう。単に、プラス・エネルギーのみならば、新自由主義と変わらないだろう。そうではなくて、差異経済とは、相補的エネルギーをもつのである。一方では、柔軟に、大胆に、創造的発案・企画力をもって挑戦する能動性をもち、他方では、差異共存共生の方向を指向するのである。これを差異相補経済と呼んでもいいだろう。また、今のところの私見では、それぞれ使用する通貨が異なるように思える。前者、有利子であり、後者は無利子ないしマイナス利子にすべきように思える。後者は地域通貨ではなくて、法定通貨である。そして、それら以外に、世界経済において複数の基軸通貨があるのが望ましいのではないか。これも、一種、差異相補性の考えと見ることもできよう。均衡させる意味があるのである。粗略であるが、今はここで留めたい。